聞き書き剣道史

伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話

小西酒造(株)会長 小西新右衞門夫人 故 小西静子 前薙刀連盟会長談

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○揚武会改め修武館に文武両道の初代師範が勢揃いする事

あなたがたがお見えになるというのであれこれ整理しておりましたら、このようなものが出てまいりました。修武館で行なわれた学問と武術、そしてその先生がたのお名前を書きつけたものです(写真参照)。富山圓先生のところに教士と称号がついておりますから、これがじっさいに書かれたのは明治28年(1895)4月に大日本武徳会が設立され、武道家の称号が制定されてからのことかと思われますが、お小さいときからこの修武館で稽古をされ、のちには師範にもなっていただいた松本(敏夫・範士九段)先生のお話だと、書かれたのはあとでも先生がたの陣容は修武館初期のものだろうということです。だとすると、剣術の富山圓先生、岡本七太郎先生、成富赫治先生、薙刀の美田村顕教先生、そのほかの先生がたもみなさん初代の師範でいらっしゃったのかもしれません(註3)

富山先生や美田村先生のご経歴がわかるともう少しはっきりするかと思うのですけれど……(富山圓は嘉永4年6月、兵庫に生まれ、幼少より父富山斎(いつき)について武術を学んだ。このあと斎藤弥九郎、西尾源左衛門、桃井春蔵の諸大家に随い、明治10年から14年まで東京向島巡査屯所の剣術教師、15年から18年まで北海道空知集治監また函館警察署の剣術教師。明治26年兵庫県伊丹町の篤志家小西新右衛門の招きに応じ、修武館の教頭として郷党子弟のために多年にわたり武術を教授した)。

さようですか。修武館の教頭になられたのが明治26年になっておりますか。でもわたくしどもの「修武館沿革」には「明治18年館名を揚武会から修武館と現在の名称に改め、自ら初代館長となり、初代師範に富山圓(のち範士)、薙刀については天道流第14代宗家美田村顕教(のち範士)を招へいして斯道の普及顕彰に貢献する基礎を確立し、当時澎湃(ほうはい)として起こった泰西模倣の風習に対して健全なる日本精神育成のためには武道を活用することが唯一絶対の道なりとして、ますます武道の振輿に努めるところがあった」と、記してこざいます。

(しばらく考えて)当時澎湃として起こった泰西模倣の風習といいますと、きっと鹿鳴館時代をさしているかと思いますが、鹿鳴館ができて華やかな夜会や舞踏会が催されたのは、あれはいつ頃でしたかしら。そうですか、明治16年(1883)に鹿鳴館ができていますか。で、鹿鳴館時代というのは?明治20年(1887)あたりがおしまいなんでしょう。

とすると、あれですね、「修武館沿革」の文章の流れからいって、この頃には富山圓先生はもう修武館でお稽古をなさっていたとしてよろしいんじゃないでしょうか。富山先生が北海道を引き揚げてたぶんお故郷(兵庫)にお帰りになったのが明治18年、揚武会を修武館と改めて業茂が初代館長となり富山先生をお招きしたとされているのが明治18年……時期的には一致していますね。

美田村先生のご経歴だとどうなっているのかしら。あら、おかしいわねえ。修武館で女子の薙刀師範を委託されたのが明治34年(1901)1月、となっているんですか。でもごらんなさい、ほらここに業茂が薙刀と対している写真があるでしょう、これはそれよりずうっと以前の写真ですよ。業茂が天道流薙刀の形をどの先生について習ったかといえば顕教先生以外にないわけだし……。

これはこういうことじゃないかしら。修武館で女性に薙刀を教えるようになって、正式に顕教先生にご指導をお願いしたのは明治34年だけれど、それよりももっと早くからお稽古に来ていただいていた、と(註3)。その頃先生がお住まいだった亀岡と伊丹とは、一山越えてわりあい近くですものね。ときどき出張教授に来ていただいたのだと思いますよ、きっと(註4)


註3 修武館奥之形というのがあってね。これは本来五本制定したものらしいが、いまは三本しか残っていない。残っているのは富山圓先生の直心影流、美田村顕教先生の天道流、真貝忠篤先生の田宮流から、それぞれ一本合計三本です。真貝先生も明治41年から修武館の師範をなさった。とすると、修武館奥之形が制定されたのは、ぼくが思っていたよりずうっとあとのことになるなァ。

それはともかくどこかへ行ってしまった二本の形だ。この二本の形は岡本、成富両先生の流儀から一本ずつとったものじゃないかと思っているけど、両先生の流儀はわからない。岡本先生は岡山出身のかたで、榊原鍵吉の撃剣興行におられた時期があると聞いているよ。ぼくら知らないが、竹刀を面の上に戴せてくるっと一回転させ、もどって来たところまた柄を持ってポカと敵を打つなんていう曲芸みたいな技をときどき披露されたらしい。(範士九段・松本敏夫氏談) [↑戻る]

註4 祖父美田村顕教の年譜の明治34年の項を見ますと「一月十五日兵庫県川辺郡伊丹町小西修武館薙刀術教師を依託さる」とあります。それ以前にも修武館へ薙刀を教授するため亀岡から出張していたかどうか、記録がないのでたしかなことはいえませんが、試みに明治18年の項には「維新以来欧米諸国ノ文物風俗入リ来ルニ当リ只管(ひたすら)ニ之レニ泥酔シテ我国ノ精華タル国体ノ尊キサヘ自然忘却スルノ傾向ヲ生ジ来リ、随っテ我ガ国固有ノ大和魂武士道モ落日ノ悲況ニ到ラントスルヲ慨シ……」郷里亀岡に生徳社というものを同志と組織して、一般子弟に国典を講義したり武術を教授したりしています。家業にさしつかえないようにと午後6時から開場したものだそうですが、その余暇には遠近の村々に出張教授をしたとありますから、あるいは伊丹の修武館で稽古することがあったかもしれません。(天道流薙刀第十六代宗家・美田村武子女史談) [↑戻る]


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