聞き書き剣道史

伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話

小西酒造(株)会長 小西新右衞門夫人 故 小西静子 前薙刀連盟会長談

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○あの「小手斬り真貝」を迎えて田宮流に入門修業をする事

このまえお見えになりましたときは、どのあたりまでお話し申しあげたでしょうか。そうでしたね。小西家十一考(十一代)小西新右衛門業茂が……ええ、この業茂が歴代の当主の中でいちばん武道奨励に熱心で大日本武徳会の設立に貢献のあったひとですけれども……その業茂が明冶39年(1906)に亡くなり、わたくしの父業精が十二考(十二代)として家督を相続したところまでお話をしたのでしたね。業精はこのとき家業を継承したばかりでなく、修武館の二代目館長となりました。

業精が剣道を、その頃は剣術とか撃剣とかいったものでしょうが、始めたのは伊丹小学校のときからだと聞いております。伊丹小学校はもともと小西家十考(十代)の小西新右衛門業廣が明冶6年(1873)、9,000円を出資して設立したものです。業廣はこれよりさき明治4年(1871)にも兵庫医学校で西洋医学を修めた中野宗碵というひとを伊丹郷町に招いて病院を創立しています。地域社会の発展に尽すというのは小西家の当主が代々心がけたもので、十一考(十一代)業茂も武道を奨励しただけではなく、山陽鉄道(現在の国鉄山陽本線)、川辺馬車鉄道(のちに摂津鉄道会社)、阪鶴鉄道(現在の国鉄福知山線)、阪神電気鉄道……などの設立発起人になっています。

さて、伊丹小学校の頃から剣道を始めた業精は、仙台の第二高等学佼、東京帝大にすすみ大蔵省の理財局につとめましたが、そのあいだじゅうもずっと稽古を続けていた模様です。

業茂が亡くなって伊丹に帰って来ました父は、明冶41年(1908)、真貝忠篤先生(註5)を修武館の師範にお招きし、その門に入って修業することになりました。真貝先生はこの年67歳で範士になっていらっしゃいます。そうですね、この頃、慶応大学の師範をなさっておられましたから、日にちを決めて東京からお見えになったものでしょう。

思いますのに、富山圓先生が仙台の大日本武徳会支部へご赴任になられたのがこのあとききだったのではないでしょうか。富山先生が修武館を去られるというので、真貝先生をお迎えすることになったのでしょうね。富山先生は仙台からのちに台湾に移られ、それからまた、台湾でのご指導をご子息の富山可誠先生におまかせになって修武館にお帰りになりますが、それはたしか大正11年(1922)頃だと聞いております。

なぜ、業精が東京にお住まいの真貝先生にわざわざご教授をお願いすることになったのか、これはわたくしの推察ですけれども、父は東京時代から先生と面識があったように思われます。父には二人の弟……わたくしには叔父になりますけれども……がおりまして、叔父たちも上京して学習院に通っていました。小西家ではこの息子三人に一軒の家を持たせ、お手伝いさんをつけまして、学生生活を送らせたようです。

叔父たちは学習院で剣道と水泳をやり、ともに堪能でした。昔は水泳も踏水術などといって武術の一つとされ、例年5月に開かれました京都の武徳察演武大会でも演武種目の一つになっていたもののようですね。武徳殿の西に疎水の舟溜まりがありますけれども、あの舟溜まりで演武したそうですよ。

わたくしの父もまた剣道だけでなく水泳も達者で、つねづね東京で修錬したと申しておりましたけれども、そのお流儀が叔父たちと同じ小堀流でした。わたくしも小学校一年生のときから父に小堀流の泳法を教わりましたが、この古式泳法はじつは学習院でさかんに行なわれたものなんですね。どうも業精は大学は東大ですけれど、自分の弟たちが通っている学習院で弟たちと一緒に小堀流を習得したのではないかと思われるふしがあり、水泳を一緒に習得したのであれば剣道も一緒に稽古したとしてもおかしくありません。真貝先生はたしか慶応へ行かれる前に学習院で師範をなさっておられます。業精がはじめて真貝先生にお稽古をお願いする機会があったのは、学習院の道場だったのではないでしょうか。それで富山先生が仙台へ去られるに際し、東京の真貝先生に師範をお願いすることになった……わたくしはそのように解釈しております。真貝先生は機会をこしらえて、わざわざ伊丹まで教授に来られたのですね(註6)


註5 真貝忠篤は天保13年(1842)正月、美濃大垣藩の師範真貝吉蔵の七男として江戸藩邸で生まれている。12歳で有名な田宮流島村勇雄に入門して修集し、ついに師をしのぐ伎倆に達した。戊辰戦争でははじめ大垣藩に従って各地を転戦し、のちに尾張藩に属して「正気隊」隊長となり武功があったとされる。もっとも調べてみると、正気隊の隊長は近藤勲、長谷川三之助で、真貝の名は見当たらない。廃藩置県で禄を失ったあと撃剣興行で食いつなぎ、明治15、6年頃、警視庁剣術世話係となった。「小手斬り真貝」「鼻欠け真貝」の異名があるが、鼻欠け真貝の異名は性病によって鼻がくずれてしまったのが由来。剣道界の長老として、無我の審判をするというので評判が好かった。大正9年(1920)2月9日、済寧館へ稽古におもむく途中、脳溢血で倒れ、四谷の自宅に運ばれて死んだ。慶応義塾、皇宮警察などの師範をつとめていた。 [↑戻る]

註6 ぼくが修武館に入門したのは大正6年(1917)、小学校4年生のときだが、あるとき真貝先生が東京から見えられるというので、業精先生に連れられて国鉄伊丹駅まで出迎えに行ったことがあるよ。大先生だというので、きっと偉丈夫のかただと想像していたら、小柄なご老人が改札口からあらわれ、そのかたが真貝先生だという。しかも鼻がお顔についていない。子ども心にびっくりしたのをおぼえているよ。マントを着ておられたから、あれはもう寒い季節だったんだなァ。(範士九段・松本敏夫氏談) [↑戻る]


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