聞き書き剣道史

伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話

小西酒造(株)会長 小西新右衞門夫人 故 小西静子 前薙刀連盟会長談

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○噂のおしどり師範が剣道と薙刀を教授する事

このまえあなたがたがお帰りになったあとで、またあれこれとさがしものをしていましたら、めずらしいものが出てきました。ええと、ほら、これが大日本武徳会第七回武徳祭演武大会の組み合わせ一覧表です。第七回といいますと、明治28年(1895)に第一回が開催されていますけれど明治31年(1898)はおやすみ、ですから明治35年(1902)5月のことですね。はしっこに「富山」とサインがしてありますから、きっと富山先生が残されたものでしょう。それから明治37年(1904)5月の第九回武徳祭演武大会……明治37年といえば日露戦争の年ですね……あら、この剣術の部の組み合わせ表には勝敗がもうついているわ。とするとプログラムではなくて勝敗表ですね。残念なことに「西ノ方」だけで「東ノ方」がないみたいだけど、ちょっと見てみましょうか。富山圓先生と小沢一郎先生の試合は0-2で富山先生が負けていらっしゃる。門奈正先生と小関教政先生は2-0で門奈先生、内藤高治先生と高橋赳太郎先生は2-0で内藤先生のそれぞれ勝ちになっていますね。

それから……こちらにあるのは業精が遺した巻物ですけれど、開いてみますよ。「田宮流剣術初伝」とありますね。あら、父が真貝忠篤先生から明治40年(1907)にいただいているんだわ。それから……こららはといいますと「田宮流剣術二巻目」。昭和10年(1935)10月10日に、やはり父がいただいていますけれど、くださったかたは「真貝忠篤嗣寅太郎」となっています。嗣というのはあとつぎのことだから、わかりました、この寅太郎というかたはわたくしどもも存じあげている真貝先生のほう。

このかたは真貝先生のおいに当たるひとと聞いておりましたけれど……でも自分のおいを養子にしてあとつぎにするという例はままあることですからね。この真貝先生のお話はあとでいたします。さてと、それから……まだ、ここにも巻物があります。「神道無彊(きょう)流剣技」と書いてあるけれど、無彊流とは聞きなれないお流儀ですね。まあ、これは明治44年(1911)に岡本七太郎先生から業精がいただいています。このまえあなたがたがお見えになったときには、岡本七太郎、成富赫治両先生のお流儀がわからないといってお話をしましたね。岡本先生は神道無彊流でいらっしゃったことがこれでわかったわけです。

富山先生は仙台へ行かれる、真貝先生はたまにしかおいでになれない……このあいだ、修武館の剣道は、わたくしどもの会社の社員で、かなりに遣えるひとたちが主だって指導していたらしいですね。ええ、業茂も業精も会社のひとたちに武道を奨励しましたから、稽古をする社員は多かったはずで、しろうとながら遣えるひともいました。

でも、いつまでもそれではいけませんね。そこで武徳会本部の講習生として修業をなさった美田村邦彦先生と奥さまの千代先生……美田村顕教先生のおじょうさまだった美田村千代先生(註7)とおむこさまの邦彦先生とご紹介したほうがいいのかしら……ともかく美田村先生ご夫妻が修武館の師範になられたのは、大正5年(1916)頃だったと聞いております。

もっとも千代先生はお父さまの顕教先生とご一緒に早くから教授に見えておられたそうですが、顕教先生がお年を召されたのとおからだがあまりごじょうぶではなかったのとで、この頃から千代先生が代わりをつとめられるようになられたものでしょうね。


註7 わたしの母千代は明治18年(1885)4月18日、旧亀山藩士内藤直行の長女として生まれています。美田村顕教に入門しましたのが明治24年(1891)1月のことで、数えで6歳。昔はみんな6歳からお稽古を始めたものですね。明治28年(1895)の第一回武徳祭演武大会には顕教とともに出演しています。千代が顕教の養女となったのは同年4月のことですが、千代の母は顕教の妹で、もともと血縁にありました。父(佐野)邦彦と結婚しましたのは大正4年(1915)5月です。 (天道流薙刀第十六代宗家・美田村武子女史談) [↑戻る]
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