聞き書き剣道史

伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話

小西酒造(株)会長 小西新右衞門夫人 故 小西静子 前薙刀連盟会長談

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○薙刀術教員養成所に入所して親子断絶を解消する事

父業精は小西家十二考(十二代)として家業の酒造を拡張発展させるかたわら大正13年(1924)には日本貯蓄銀行(協和銀行の前身)を設立して頭取をつとめるなど、日にちの生活はめまぐるしいほどに忙しかったはずですが、それでも剣道とお能のお稽古だけはとりわけ熱心だったようです。お能はなんでもプロ級との評判で、大西能楽堂という立派な能楽堂がこざいますが、そこで舞わせていただいたりしておりまし仁。剣道は……あれはたしか昭和6年(1931)のことと聞いておりますけれども、昔の学連O.B.を主体とした「大阪剣道同好会」というつどいができ、父は翌年入会しました。それからはなおさら稽古に励んだようすです。同好会は旧制の高等学校、専門学校以上の卒業生で、しかも四段以上の伎倆のひとという資格が必要だったといつか松本(敏夫)先生がお話になっていらっしゃいました。毎月一回、幹事持ち回わりで例会が開かれるのですね。住友化学とか久保田鉄工とか日本生命とか阪急とか道場を代えてお稽古があるのですが……新年はもちろんのこと小西酒造の当番になるわけですね(笑)。業精は同好会に入会してからは、まいにちのように稽古しておりました。

大日本武徳会に「薙刀術教員養成所」が設置されましたのが昭和9年(1934)6月のことで、美田村千代先生が養成所主任教授、美田村邦彦先生が「済美寮」舎監……ええ、養成所は全寮制になっており、京都の左京区岡崎西福ノ川11番地にありました。わたくしもこの養成所の第5期生ですけれども……それで千代先生も邦彦先生もこちらにご専念なさることになりました。千代先生は養成所が軌道にのりましてからはまた修武館でお稽古をつけていらっしゃったように記憶しておりますけれど、邦彦先生は養成所生徒の監督で、とてもそのようなお時間がなくなってしまわれたのだと思います。

わたくしが教員養成所に入った動機でこざいますか。いいえ、千代先生のもとでお稽古している裁縫学校の生徒さんやら修武館の稽古始めで披露される演武などを見まして、漠然としたあこがれのようなものは持っておりましたけれども、決してそれがこうじてというのではないんですね。

じつを申しますと、こんなことがございました。わたくしが高等女学校を卒業しましたのが昭和12年3月のことですけれど、その翌月、父が海外旅行に連れていってくれました。そのじぶんは海外旅行などとはいいませんで外遊とか、世界漫遊とか(笑)。現在のようにジェット機で、という時代ではなく、客船で印度洋を航海いたしましてヨーロッパに着きますのに40日。まいにち船上です。父はたいそう論語を勉強したひとで、食事のほかは、一日中デッキ・チェアで論語を読んでいて倦きない。ところがわたくしは女学校を卒業したばかりでまだ若い身空でしょう……身空というのもおかしいですけれど(笑)、時間をもてあましてしまうんですね。長い航海ですからお客を倦きさせないようにと、客船では麻雀やらブリッジやらと娯楽を提供していて、しかも毎晩のようにダンス・パーティーが開かれるんです。わたくしはそれが嬉しいやら楽しいやらで……わかっていただけると思いますけれど(笑)……夜ともなりますとそわそわして落ち着かない。で、結局のところ、父を残してダンス・パーティーに出かけてしまうんです。これがすっかり父のご機嫌を損じてしまいまして、旅行中はそうでもなかったのですけれど、10月になって帰国しましたら、とたんにわたくしに口をきいてくれなくなってしまいました。用事があるときは、おたがいに筆談です(笑)。メモが行ったり来たりするわけですね。あいだに入りました母がおろおろしまして、わたくしに「お父さまにあやまりなさい」というんですが、わたくしとしてはそれもしたくないんです。いやな娘ですねぇ(笑)。でも、なんとかして局面を打開しなければならない、それには父がいちばん喜びそうなことをするのがいい。父のいらばん喜びそうなことはなにか。昭和13年(1938)の稽古始めのときでした。薙刀術教員養成所に行く意思のあることを、ひとづてに父に伝えてもらったのです。「さすがに静子だ」と父がいったとあとで母から聞かされました。親子の断絶はにわかに解消することになりました(笑)。


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