聞き書き剣道史

伊丹「修武館」二百年の歴史をいまだに維持する話

小西酒造(株)会長 小西新右衞門夫人 故 小西静子 前薙刀連盟会長談

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○山は富士、酒は白雪 剣道・薙刀は修武館という事

養成期間は一年、さきほど申しましたように全寮制で、期間中は一日たりとも帰省は許されないんですね。一期先輩の美田村武子先生なんかは済美寮とご自宅が目と鼻の先、それでも一年間ただの一度もおうちにお帰りにならなかった。もっとも武子先生の場合はご両親が主任教授と舎監先生でいつもご一緒でしたけれども(笑)。朝食ごはんと一汁とたくわん、昼食ごはんとたくわん、夕食ごはんと一菜とたくわん……一菜といってもたいていはキャベツいためです。教室での講義もちらちらとありましたけれど、ほとんど道場での実技でした。日曜はお休みですが、ところが日の丸弁当を持ちまして邦彦先生に引率されお山に出かけなければなりません。ピクニック?とんでもありません、お山で発声練習なんですよ。いろいろありましたけれど、なんといってもわたくしがつらかったのは、やっと就寝時刻が来たと思う頃合い、舎監先生の点呼がかかって訓辞がはじまることでしたね。邦彦先生がおっしゃるのに「諸君はひとたび結婚して主婦となるや、夜もゆっくりと眠っている時間はないであろう。これはそのときに備えての修業である」(笑)。

養成所を卒業しますさいに、生徒は異種試合、つまり剣道と試合をしなければならないことになっておりました。そのお稽古をお願いしますのに邦彦先生だけでは手がまわりかねるわけですが、この元立ちをわれとみずから買って出ましたのが業精で、これはもう娘可愛さの一心なんですね。じつに熱心に京都までまいにち通って来てくれました。翌年からはその父もとんとすがたをあらわさなかったそうですから勝手なものですけれども(笑)。このときの異種試合に備えたお稽古では父に連れのかたがございまして、ずいぶんご指導いただいたものですが、このかたが真貝寅太郎先生、さきほどちょっとお話ししましたが、忠篤先生のおいに当たられるかただと聞いております(註10)。当時、ご年輩は50いくつか、60歳ぐらいまでと思いましたが、お顔の小さい美男子、でいらっしゃいました。うちの「修武館沿革」によりますと、真貝忠篤先生が亡くなられたあと師範になられたように書いてありますが、それはおそらく忠篤先生のこ遺徳をしのんだ業精の配慮だったかと思われます。おすがたを拝見したのは、このときがはじめてでしたが、なんですか当時は池田あたりにお住まいだったように聞きました。修武館が財団法人になりましてからは、評議員をおつとめいただいたそうです。

修武館を財団法人にしましたのは業精の意思でこざいました。小西家代々の当主が武道をやるのであればこのままでもいいが、テニスが好き野球がいい、という者もいずれはあらわれてこよう、そうなっては修武館の存続があやうい……だからいまのうちに、財団法人にしておこうということだったようで、このことは業精がいかに武道と修武館を愛していたかを、よく物語っているように思います。昭和15年(1940)から準備をととのえ昭和17年(1942)に正式に認定されました。大阪府警の剣道師範をなさっていた越川秀之介先生……内藤高治先生の内弟子をしながら武徳会本部の講習生として修業なさったかたですけれども……を修武館の師範にお招きしたのも、ちょうどこの頃合いだったろうかと思います。けれども日本はもう太平洋戦争に突入しておりまして、しだいに戦局が逼迫し、この伊丹でも空襲のおそれが出てまいりました。大きな構えの屋敷でしたから、ひとたび空襲にあって焼夷弾でも浴びたら延焼をふせぎようがない……そうした疎開の意味から古い道場を取り壊しましたのが昭和19年(1944)のことです。

まもなく終戦。武道には不遇の時代になりましたけれど、修武館を再建しましたのは昭和25年(1950)11月のことで、まだ剣道は一般では再開されていない頃でした。戦後、最初の道場再建だったとみなさんがおっしゃってくださいます。あるいはそうかもしれません。200年におよぶ修武館の伝統を絶やすことなく、こんにちに引き継ぐことができましたことを誇りにしております。剣道では越川先生が亡くなられたあと師範に松本先生をいただき、そしていまは鶴丸寿一先生にお願いしています。わたくしが「なぎなた連盟」の会長をしている関係で、修武館は薙刀のお稽古もたいそうさかんなんですよ。連盟のなぎなたを徳永千代子先生、天道流薙刀を美田村武子先生にご指導いただいております。最後にひとことPRをよろしいでしょうか。(どうぞといったら)「山は富士、酒は白雪……剣道・薙刀は修武館」(笑)。


註10 ぼくが21、2歳ですよ、昭和8年(1933)頃だったなァ。業精先生に「おまえは富山先生の直心影流だが、真貝先生の田宮流にも随身せよ」と名古屋在住の忠篤先生の息子さんというかたのお宅に連れていかれ、血判を押して門人になった。そのひとの年齢風貌は静子先生のいう真貝寅太郎という人物にそっくりだ。同じひとだよ、きっと。のちに名古屋から阪神方面に移られたのだろう。 (範士九段・松本敏夫氏談) [↑戻る]
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