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近世伊丹酒造業の展開と小西家
−酒造家資料調査によせて−

柚木 学


目次

はじめに

 昭和48年度に完結した『伊丹市史」編纂過程において、近世編の主要テーマは酒造業におかれ、伊丹酒造業に関する史料について特に力を入れて調査され、その史料収集に努力してきた。
 伊丹の銘酒白雪の醸造元である小西新右衛門氏文書についても当然注目され、同家のご好意でその一部が調査された。その調査結果の目録として、『小西新右衛門氏文書目録』(伊丹市史編纂資料目録集7、昭和41年7月)、および『小西新右門氏文書目録(2)』(伊丹市史編纂資料目録集13、昭和42年4月)が、いずれも伊丹市史編纂室において刊行された。その史料を利用して『伊丹市史』の本編および史料編が執筆されたのである。

 しかし市史編纂時において、小西家にはなお多数の文書が残されていることが明らかとなりながら、時間の点で十分にそれを利用できないままに終わってしまった史料や、その後古い酒蔵を取り壌すなかで新たに発見された史料もあって、市史完結時において、いつの日にかこれを明らかにしたいとの期待を抱きながら一応その幕が閉じられた。
 幸いにして伊丹市では市史完結後においても伊丹市資料修史等専門委員会が構成され、そこで『伊丹市史』の補正・補遺事業に当たってきている。小西家文書についても、同委員会が前々からその調査完成を熱望し続けてきたが、この度所蔵者である小西新右衛門氏の承諾を得、昭和61年度より3カ年の期限付きで、膨大な史料の整理と史料目録の作成に着手してきた。
 その第3年目に当たる今年3月、ようやくにして一応史料の仮目録が出来上がる見通しがつき、本年4月からは、いよいよ史料集として『伊丹資料叢書』の1冊に加えて刊行されるべく、編集の作業が始められることになっている。
 いまだ完全に資料整理が終わった段階ではないが、この小西家文書の史料的価値を、近世伊丹酒造業の展開の中で位置付ける意図のもとに、若干の解説を加えてみることとする。


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1、伊丹酒造業の発展と小西家

 近世酒造業は領主市場の成立と米の商品化を基軸に、上方において急速に発展していった。そして技術的には、古くからの濁酒の醸法から諸白造りの新たな技術改良が加えられていったのは16世紀のことであった。
 その諸白造りは大和を中心とする南都諸白から、近世に入って伊丹諸白へと受け継がれていった。あるいは奈良の僧坊酒としての諸白造りが河内を経て摂津に入り、伊丹を中心とする上方において商人により営業化されていったと考えられる。
 この諸白酒とは『本朝食鑑』によれば、白米と白麹とをもって仕込まれた酒のことで、「近代絶美なる酒」と称賛された。伊丹諸白は、この新たな醸造原理に基づいて南都諸白から伊丹諸白へと実用化されていった。
 上方酒造業のなかで、伊丹はその中心であり、その発展期は寛文〜元禄期(1661〜1704)であった。

 しかもこの上方酒造業のもう1つの特徴は、江戸積酒造業としての発展であった。
 清酒の江戸送りの元祖を伊丹近在の鴻池山中氏に求める鴻池家伝は、こうした近世に入っての江戸の急速な発展に即応した上方の江戸積酒造業の台頭発展を物語るものと言えよう。ちなみに元禄10年(1697)の上方から送られる江戸入津高は64万樽にも達していた。

 さて、小西家の酒造業の創業の時期はつまびらかでない。しかし、初代薬屋新右衛門は文禄元年(1592)生まれであるところより、あるいは慶長期(1596〜1615)にその創業を求められるかもしれない。
 しかし、史料で確証できるのは、寛文11年(1671)の「寒造米員数書付指上ケ申覚」である。それによると、寛文10年における薬屋新右衛門の酒造米高355石4升、薬屋伝右衛門310石6斗8升で、翌11年は前年の2分の1造りであるので、それぞれ177石5斗2升・155石3斗4升である。
 のち正徳5年(1715)の「酒株之覚帳」により、その古株高、つまり寛文6年第一次株改め時の株高にまでさかのぼると、新右衛門の酒造株高は1420石1斗6升、伝右衛門のそれは1242石7斗4升9合6勺となり、近世初期においてすでに千石造りの規模であったことが確認できるのである。

 この新右衛門が初代薬屋新右衛門(文禄元年〜天和元年)であり、伝右衛門とは初代の外孫を養子として取り立て、分家させたもので、その際酒造株を譲り渡したものと思われるが、分家した時期については不明である。

 なお、前記正徳5年の「酒株之覚帳」によると、伊丹酒造業の状況は、旧地48株、酒造人36人で、そのうち屋号系では油屋・丸屋・升屋・豊島屋・稲寺屋などが有力酒造家として存在していたが、いずれも近世後期には没落していく酒造家で、それに次ぐ薬屋・紙屋などは、この時点では必ずしもまだトップグループではなかったにしろ、近世後半の文化・文政期にはトップグループに踊り出てくるのである。
 つまり小西家の酒造業の発展は、元禄期にすでに地歩を固め、それ以降に飛躍的な発展が見られることになる。そして18世紀後半の新興江戸積酒造地の灘目との競合関係の中で、江戸積酒造家として成長発展していったのである。
 灘酒造業発展の1要因は、享保末年の米価下落に際して取った幕府の米価引き上げ策により、近世初頭以来の幕府の在々酒造禁止の祖法が否定された点に求められる。
 つまり幕府は酒造業の持つ米価調節機能に注目し、米価引き上げの有力な手段として酒造奨励策が取られるようになり、これを契機に灘酒造業が台頭発展してくる反面、伊丹・池田・西宮などの近世前期の江戸積酒造業は、いやおうなしに競争体制の中に巻き込まれていった。

 この過程で、伊丹の有力酒造家の稲寺屋・升屋は寛延3年(1750)には姿を消し、油屋・丸屋は衰退していったのに対し、紙屋・豊島屋・一文字屋・加勢屋、それに薬屋などが急速に上昇していった。
 そして天明6年(1786)には、伊丹酒造人41人のうち、江戸積酒造人は33人で、中でも魚屋町の小西屋新右衛門・紙屋八左衛門の両家が突出していた。また天明4年前後の時期に、新興在方酒造地たる上灘・下灘・今津の3郷を包摂した形で、江戸積摂泉12郷の酒造仲間の結成が見られた。12郷とは、前述の新興の灘3郷に加えて、大坂・伝法・北在・池田・伊丹・尼埼・西宮・兵庫・堺の旧江戸積酒造地を指している。

 寛政改革での酒造統制のあと、文化・文政期は再び勝手造りの自由競争期に入る。
 このとき灘酒造業は飛躍的に発展するが、旧江戸積酒造地の中で、この灘酒造業と同じ歩みをしていったのが伊丹であり、次いで西宮であって、池田・尼崎その他はこの競争の中で敗退していくのである。
 小西家では魚屋町の本蔵のほかに、文化14年(1817)には向出店、文政9年(1826)には乾出店の名義で酒造業の拡張がみられた。向出店はすでに8代新右衛門(安永元年〜寛政8年)のとき、7代新右衛門(元文3年〜文化4年)の実弟与市郎(寛保2〜寛政10年)が明和2年(1765)に酒造株を譲り受けて分家したのに始まる。翌3年には惣宿老として町政に参画し、同5年に妻帯して四郎右衛門と改名する。この向出店が以後代々襲名されていくが、通称向小西と呼ばれた。
 したがって文化14年の四郎右衛門は3代目にあたる。それに加えて、この時期には分家の乾出店(乾小西)と江戸出店の小西利右衛門、大坂安治川の樽廻船問屋の小西新六といったように、小西家同族ですでに江戸積酒造業の生産・流通の一貫した部門を文配していたことになる。

 天保期に入ると、近衛家の酒造株調達を受けて、伊丹酒造家は借株によって減醸時における造石高の減少をカヴァーしていこうとするが、その借株料負担と天保末年には酒価の下落のために、酒造経営はかなりの行き詰まりをきたし、弘化期にはついに身代限りの酒造家が続出して、伊丹酒造業は衰退の方向をたどった。
 他方、この逼塞状況を救助するため、酒造蔵・酒造諸道具一式・酒造株を担保に近衛家からの拝借金の融資を受けるが、その返済不能をめぐって訴訟が続出している。このとき、小西家と同じ歩調で発展してきた紙屋八左衛門をはじめ、加勢屋・木綿屋・大鹿屋・津国屋など、伊丹酒造家の中でも上位の酒造家が没落していった。
 このような状況の中で、小西家のみがこの危機を切り抜けて、幕末期には紙屋に代わって支配的位置を築くことができた。しかしこうした危機から小西家が脱却していくことができたのは、近世初頭以来の、伊丹における小西家の酒造経営をはじめ、領主近衛家との関係、および文化・文政期以後活発となる大名貸の実態の分析など、研究すべき余地が十分に残されており、今後の研究に期待するところが大きい。

 なお、明治3年における小西家の鑑札高(酒造米高)は、「酒造米高書上帳」によって表示すると、表1の通りである。
 小西新右衛門鑑札高1万594石、札数16枚をはじめ、小西同族で合計2万3116石、37枚となっている。そして所持酒蔵は、魚屋町・大手町・北魚屋町・住吉町の5蔵であった。


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2、伊丹酒の技術開発と小西家史料

 酒造技術の問題は、仕込み方法の改善でもある。
 酒は米を原料とする加工業であるが、単に米の澱粉に直接酵母菌を作用させてアルコールができるのではなく、澱粉はまず麹菌によって糖化され、できた糖分が酵母の働きによって酒精に転化する、という二段の化学反応に依存している。つまり糖化作用と発酵作用の2つの化学作用によらなければならない。
 ところが第1段階の糖化に際しては、至適温度が摂氏37度で、できた糖分を酒精化する酵母の活動の至適温度は30〜32度、ということになる。

 したがって温度の点からだけ考えると、清酒醸造の最適期はなるべく暑い時期、つまり夏季ということになる。
 実際に室町末期には「夏酒」と称して旧暦4・5月頃に仕込まれていたことは、『多聞院日記』にも述べられている通りである。しかしながら夏季の高温の季節に仕込むと、酵母の働きが活発になると同時に、腐敗菌や酢酸菌も盛んに活動する。したがって酒は早くできるが、できた酒はとかく酸味を帯びた酒で、あまり良質の酒ではない。

 この矛盾を解決する方法は2つ考えられた。1つは、酒精の生産と酢酸のそれを同時に進行させるかわりに、醪が成熟した段階で、灰汁をもって酸味を中和させる方法である。
 鴻池の番頭が主人を恨んで逐電する折、火鉢の灰を醪桶に投げ込んでいったが、翌朝には見事に上々の澄酒(清酒)ができていた、という鴻池家の家伝も、つまりこの灰による酸の中和を暗示したものである。
 そしてこの澄まし灰の法は、鴻池家を待つまでもなく、すでに考え出されていた日本酒の醸造法で、直し灰には普通椿や樫の灰が用いられていた。

他の方法は、腐敗菌や酢酸菌は低温度では活動が鈍くなる点を利用して、極寒の冬季に仕込めば、糖化や発酵には時間が長くかかるが、その代わり腐敗菌や酢酸菌の繁殖を抑えることができ、それだけ純粋な酒精ができる。
 これがいわゆる寒造りの仕込み法で、奈良や京都、次いで伊丹・池田などの上方に早くから広まっていった。

近世前期の伊丹諸白は、仕込み時期については、夏から春にかけて何回かに分けて仕込んでいた。
 『日本山海名産図会』によると、「当世醸する酒ハ、新酒(秋彼岸頃より造りはじめる)・間酒(あいざけ)(新酒と次の寒前酒の間に造る)・寒前酒・寒酒等なり」として、秋彼岸過ぎより翌年春にかけて仕込んでいる。しかしできた酒は寒酒が一番良く、「すへて日数も後程多く、あたひも次第に高し」と記している。そして実は伊丹の酒造仕込み法のうちで、この「あたひ」も高い寒造り酒に集中していったのが灘酒造業であって、近世中期以降になって灘5郷が発展していった技術的要因は、この寒造りの仕込み方法にあった。

 なお、清酒仕込み方法の中で、同じ原料米と仕込み水と麹を用いながら、濁酒と諸白ないしは清酒とを判然と区別するものは、モト(酒母)仕込みの開発であった。
 というのも、酵母菌は、とくにビタミンMの十分な補給がない限り、一定容量中の菌体数はある限界を超えて繁殖することができない、という特性を持っている。そのために大量に、かつ酒精の濃度の高い酒を造るには、一旦モトを造り、そのモトに原料米と水・麹を何回かに分けて投入するか、または一旦仕込んだ醪をしぼり、それを汲み水として、再び米と麹を加えて仕込んでいくか、この2つの方法が考えられた。前者が酘(そえ)(添)法であり、後者は酎法である。
 この酘法によったのが、上方流の三段掛(初添・中添・留添)で、室町末期の『多聞院日記』にはすでに二段掛ないし三段掛の醸法が試みれ、これが三段掛に定着するのが南都諸白から伊丹諸白にかけてであった(なお、酎法については、『本朝食鑑』では「古酒造り」として述べており、いまの味淋の醸法につながるものである)。

 このような近世酒造技術の変遷を的確に実証していく史料として、小西家文書の中の「酒永代覚帳」は重要である。
 元禄6年(1693)から始まるこの史料により、幕末に至るまでを抽出して表示したのが、8〜9ぺージの表2である。これによってまず小西家の仕込み方法として、仕込み時期と仕込み回数から見てみよう。

 モト数とは造石高を仕舞高で割った商であり、仕舞高は造石高をモト数で割った商で、1モトから醪ができるまでに要したモト米・掛米・麹米の台計高を示している。
 仕舞個数とはモト数を仕込み日数で割った商で、一ッ仕舞とか二ッ仕舞という。したがって、1日の仕込み量は仕舞高に仕舞個数を掛けたものである。
 そこで安永7年についていえば、モト数の合計は171・5モト、仕舞高8石5斗であるので、造石高つまり仕込み石数は1457石7斗5升で、すでに千石造りの規模に達していたことがわかる。その1日の仕込み量は同じ8石5斗仕舞であっても、新酒の二ッ仕舞では17石、他の1・5仕舞では12石7斗5升であり、1日10石以上の原料米を消化していたことになり、それを精米するのに必要な碓屋をかなり雇用しなければならなかったことが推測される。

 仕込み時期については、元禄6年から幕末に至るまで、新酒から始まり春酒に終わる5期ないし4期に分けて仕込んでいる。
 元禄6年については、新酒、前作り、*上々(寒酒をあらわす)、春酒の4期にわたり仕込んでおり、このとき小西家の仕舞高は9石7斗であるので、仕込み米高は約1280石で、モト数132モトである。それから換算して清酒高は約750石と推定できる(元禄期で玄米10石より清酒6石)。ただし132モト全部を1期に仕込むのではなく、新酒・前作り等、そのつどモト仕込み→添仕込みを繰り返しているのである。その点で、後年の灘の寒造り一本に集中している仕込み法とは大きく異なっていた(表2の文政元年、嘉納家の事例を参照)。
 またこの元禄6年の寒造り(*上々)では、「麹を多くして水をひかえ、米を白くつくために、甘口となりやすいが、その点を用心して辛口になるようにすると、風味も甘口よりはるかに好ましい」と述べている。

 こうしてみると、仕込み時期が4ないし5期に分かれているとはいえ、時代がたつにつれて最初の新酒が廃止されて(文化10年以降)、また仕込みの終わりも寒明けから春酒にまで延びていっていることがわかる。
 また安永7年ではモト数171・5モトのうち、新酒のモト数が60というように、新酒仕込みに重点がおかれていたのが、漸次寒中酒への比重を高めてきていることも注目される。そして文久3年ともなれば、仕込み時期は前寒・極寒・寒明けと、ほとんど寒の前後の時期に集中していく傾同を示している。この点、灘酒造業ではすでに寒造り一本の仕込み方法が一般化していることから考えて、伊丹酒造業の技術的遅れを指摘することができよう。

 そのほか、酒造蔵や酒造道具一式については、小西家文書の「酒造株・酒蔵譲渡証文」などによって、具体的に解明していくことができる。


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3、伊丹酒の輪送システムと小西安治川店

伊丹酒の江戸への輸送は、次の3ルートを経て行われた。

(1) 伊丹から神崎(または広芝)まで、馬背で運搬される駄送ルート
(2) 神崎から天道船(小廻し船)によって伝法まで運ばれる津出しルート
(3) さらにこの伝法で江戸積大型廻船(主として樽廻船)で積み出される江戸 ルート

これら3ルートには、それぞれ積み荷と運送・運搬の業務を受け持つ問屋があった。
 (1)には伊丹の馬借問屋、(2)には神崎船積問屋、(3)には伝法船積問屋(いわゆる樽廻艇問屋)である。これらの問屋に対し、酒造家はいわば伊丹酒家仲間を組織し、荷主として酒造家の利益と権益を擁護する体制が取られていた。

 そこで(1)の神崎までの駄送ルートについては、伊丹馬借問屋と酒家仲間の間で、馬方の酒荷の取り扱い方について不正を排除し、馬借問屋に対して酒造家の支配を強化することを申し合わせている。

 また(2)の神崎から伝法までの酒樽運搬にあずかる神崎船積問屋は、大道九兵衛・渚吉兵衛・小ろ庄兵衛の行事名で、次のような「問屋定め」をしている。
 1つは神崎に碇泊している天道舟の中で「一文勝負」(博打)をしないこと、2つは神崎に運ばれてきた酒樽は、日暮れにならないうちに積み立てること、最後は定められた酒樽のほかに1駄でも多く積んではならないこと、などである。
 これらはいずれも神崎から伝法へ運搬される天道舟の船頭への取り締まりが主な狙いとなっているが、それは取りも直さず酒屋仲間からの強い要求でもあった。

 最後に(3)の伝法へ運ばれてきた酒樽は、そこで伝法船に積み替えられる。伝法船とはつまり弁才型の荷船(商船)で、ふつう千石船とも呼ばれ、菱垣廻船・樽廻船ともこの種の和船であった。
 この江戸への酒樽積み立てと、伝法船の仕建と廻船差配をするのが、伝法船問屋(のちの大坂・伝法樽廻船問屋)である。天和2年(1682)の船問屋は中島屋小左衛門・綿屋治兵衛・小山屋源左衛門・堂屋藤兵衛の4軒であった。これら船問屋と伊丹酒家仲間との申し合わせで、次のような点が明らかとなる。
 まず天和期にすでに酒樽積み切りの伝法船が存在したこと(つまり菱垣廻船への他の諸荷物との積み合わせのほかに)、この伝法船は伊丹酒家仲間の支援のもとに運営されていたこと、またこの伝法船はのちの樽廻船の源流をなすものであること、である。樽廻船という名前は、享保末年の菱垣廻船との積み合い(混載)を避けて酒問屋が江戸十組問屋を脱退してのちのことで、それまでは伝法仕建ての地元の廻船という意味で、単に伝法船と呼ばれていたのであろう。
 そしてこの伝法船は10人乗り以上の廻船であり、積石数はまだ500〜600石前後であって、新造後6年以内のものに限定されていた。なお当時伝法以外に、周辺の廻船は田舎船と呼ばれ、この田舎船も伝法船とほぼ同じ条件で江戸積廻船として仕建てられていたこと、などが判明する。

 一般に、上方から江戸積みされる酒荷は、当初には上方・江戸間を航行した菱垣廻船に積み込まれていた。
 菱垣廻船は元和5年(1619)に、泉州堺の商人が紀州富田浦の廻船を借り受け、大坂より木綿・油・綿・酒・酢・醤油などの日用生活必需品を積んで江戸へ廻送したのに始まる。寛永元年(1624)には、大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積船問屋を開業し、ついで同4年には毛馬屋・富田屋・大津屋・顕屋(あらや)・塩屋の5軒が同じく船問屋を始めたが、これが大坂における菱垣廻船問屋の始まりである。

 他方、上方江戸積銘醸地で造られた下り酒が江戸に廻送されたのは、既述の通り元和元年であるが、このとき酒荷は他の積み荷との積み合わせであった。
 ところが酒荷だけの積み切りの形で廻送されたのは正保年間(1644〜48)のことといわれ、大坂廻船問屋により伝法船を仕建てて積み下された。これが伝法における樽廻船の始まりで、樽廻船はこのほか安治川・西宮にも成立をみるのである。
 そして地元伝法で廻船問屋が成立するのは万治元年(1658)で、このとき北伝法上島町の佃屋与治兵衛が廻船問屋を開業し、ついで南伝法にも廻船問屋ができるのである。

 小西家が廻船問屋へ進出するのは伝法においてであり、前述の天和2年の廻船問屋の中には、まだ薬屋新右衛門の名を見出すことができない。しかし元禄13年(1700)の7軒の廻船問屋の中にはすでに名前が上がっているので、大体貞享・元禄期の1680〜90年ごろと想定されるが、あるいは後述の江戸十組問屋成立の元禄7年ごろとも考えられる。
 そして宝永4年(1707)にはすでに南伝法へ出見世(出店)している旨の史料があり、伝法船を仕建てて活発に廻船問屋を営んでいることがわかる。

 元禄7年は江戸十組問屋が結成された年で、主として菱垣廻船を仕建てて十組問屋に所属する菱垣積荷物の輸送に従事したが、酒荷もこれら菱垣積荷物との積み合いで江戸積みされていた。
 それが享保15年(1730)に酒問屋が十組問屋より脱退したのを契機に、以後酒荷は、菱垣廻船とは別仕建ての樽廻船で輸送されることになった。
 ここに大坂(安治川)・伝法の樽廻船問屋の手で樽廻船が仕建てられることになった。他方、それとは別に西宮にもすでに宝永4年には江戸酒積問屋が酒家の援助でできあがり、樽廻船を仕建てていた。

 こうして上方・江戸間の海上輪送は、菱垣廻船・樽廻船による海運競争が激しく展開していった。
 その結果、菱垣廻船・樽廻船は積み荷規定をめぐって対立していく中で、安永元年(1772)に、大坂伝法樽廻船問屋8軒、西宮樽廻船問屋6軒が株立てされた。この機会に、小西家ではこれまでの伝法店・安治川店を一本化し、北安治川1丁目に樽廻船問屋としての大店を構え、これまでの北伝法の樽廻船問屋から大坂安治川へ進出した大坂樽廻船問屋へと発展していった。
 この樽廻船問屋は明治に入って樽廻船が消滅するまで、安治川店を拠点として海運活動を展開していった。

 この間、安治川店の樽廻船問屋としての活躍は、寛政8年(1796)8代新右衛門が没したあと、新六が聟養子として迎えられ、享和2年(1802)に安治川店へ分家した。
 以後、文化〜天保期に、小西新六は大坂安治川の樽廻船問屋として、また明徳丸・幸福丸・喜宝丸(いずれも1500石積み)、辰栄丸(1600石積み)の廻船船主として廻船経営にあたり、また幕府御城米積御用の廻船仕建てに奉仕するなど、この新六の時期が文化・文政期の発展期であっただけに、目覚ましいものがあった。さらに他の船主の廻船建造に際しては廻船加入を通して樽廻船へ出資して、積極的に安治川店の拡張に努めた。
 小西家史料にある安治川店の「勘定帳」や「小遺帳」、さらに廻船問屋としての問屋式法をまとめた「江戸諸廻船問屋式法之写」や、海上法規を収録した「海上之覚書」などは、こうした廻船問屋経営や廻船を所有する船主としての廻船経営についての実態を示す貴重な史料となっている。

 天保12年(1841)の株仲間解散のあと、菱垣廻船・樽廻船の自由積み荷が認められ、弘化4年(1847)には、9店積合仲間の差配のもとに、菱垣廻船問屋・樽廻船問屋が編成替えされた。
 このとき小西家では、大坂樽廻船問屋は新六亡きあと9代小西新右衛門名義となり、慶応3年(1867)には小西茂十郎名義となって、明治10年ごろに樽廻船が消滅していくまで、小西家の海運活動の拠点として、安治川店は大きな働きを担っていたのである。また安治川店の周辺に家屋を所有して借屋経営を行っていたことも、安治川店の「勘定帳」などで明らかにすることができるのである。


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4、伊丹酒の販売組織と小西江戸店

 江戸積酒は、上方から酒造家=荷主の送り荷物(委託販売)として江戸新川界隈の下り酒問屋へ送られた。
 この下り酒問屋は、慶長4年(1599)に伊丹近在の山中勝庵によって「駄送り」されたという鴻池家の家伝にもあるように、酒造家=荷主の直売から出発したものである。最初は馬背に1樽ずつ振り分けて運んだので、2樽をもって1駄といい、1樽を片馬といった。やがて陸送より海運へと移り、江戸入津樽の増大とともに、上方酒造家が江戸出店を設けて、「手酒の一手販売」をするようになった。
 つまり酒造家自身による江戸市場開拓であり、そのための江戸出店問屋であった。

 すでに明暦3年(1657)には酒醤油問屋があり、酒荷は必ずこの酒醤油問屋の手を経て販売するという問屋仲間の申し合わせもなされていた。
 延宝3年(1675)には、同業者間で規律を定め、同8年には「酒問屋寄合」と称する仲間の結成もみられた。そして天和3年(1683)には、瀬戸物町組・中橋町組・呉服町組・青物町組の4町に同業集居の形で酒問屋仲間が結成され、各町に当番をおいて、これを「4町当番」と呼んだ。この4町当番は、公私の一般庶務は勿論のこと、荷主・仲買との往復や、問屋同士での酒荷の調整にあたり、蔵敷料として5歩(のち6歩)の問屋口銭を徴収した。
 これによって、のちの下り酒問屋仲間仕法がほぼできあがっていた。

 元禄7年(1694)の江戸十組問屋仲間が結成されたとき、酒店組として下り酒問屋もこの十組問屋に加入し、元禄16年には下り酒問屋126軒を数えた。
 さらにこの酒問屋と小売酒屋との間に介在する酒仲買が42軒あり、ここに酒造家=荷主→江戸下り酒問屋−酒仲買−小売酒屋という下り酒の販売ルートが確立していた。

 元禄16年の126軒の下り酒問屋のうち、「古来よりの問屋」76軒、「出店問屋」45軒で、廃業者は5軒を数え、実質的には121軒が営業していた。
 古来よりの問屋の多くは、元は上方江戸積銘醸地よりの出店問屋であった。
 中でも伊丹・池田・大坂、それに美濃・3河・伊勢などの酒造家の出店から出発したものが多く、伊丹の豊島屋・上島屋・丸屋・大鹿屋・稲寺屋・津国屋・小西屋・紙屋、池田の大和屋・満願寺屋をはじめ、大坂の鴻池屋・鹿島屋、伝法の岸田屋などがそれである。しかし出店問屋が定着していく中で、経営的にも本家より自立して酒問屋を営むと同時に、他の荷主の酒荷をも売りさばくようになっていく。これが「古来よりの問屋」である。
 それに対し、「出店問屋」は「手前酒一色」の一手販売を引き受ける、荷主の直売機関であって、上方の酒造家を本家(店)とし、それに対して江戸店としての機能を果たしていた。

 こうして26軒の下り酒問屋も、文化6年(1809)、杉本茂十郎による江戸問屋仲間の結束を図るための菱垣廻船積仲間結成に際しては、酒問屋は38軒(株)に株立てされ、仲間中で最高の年1500両の冥加金を上納して、幕府による酒問屋仲間での競争を排除して、独占の傾向を強化していった。
 これを契機に、幕末期には酒問屋による荷主=酒造家支配の体制が取られていった。

 小西家がいつ江戸出店を持つに至ったかについては、現在のところ小西家の酒造業の創業の時期とともにつまびらかではない。しかし、前述の元禄16年(1703)の「江戸下り酒問屋一覧」には、茅場町組48軒の中の1軒としてあり、名義は小西伝右衛門とあるので、元禄期までには江戸出店を持っていたことは確かである。
 伝右衛門は初代の外孫を婿養子として迎え、酒造株の一部を貸与されると同時に、寛文13年(1673)には近衛家の許可を得て、銀札発行の札元となっている。
 この伝右衛門名義の江戸出店が、元文2年(1737)には小西利右衛門名義となるのである。この利右衛門は、近世・近代を通して代々本家小西新右衛門の江戸店、つまり下り酒問屋として活躍するのである。
 さらに小西家では、江戸出店がさらに分家して、小西利作が小西江戸西店を開店する。こうして小西家では、江戸出店と江戸西店の2店の下り酒問屋を営んでいる。この点は、伊丹は勿論のこと、灘などの、他の江戸積み地の酒造家にも見出すことができない特徴となっている。

 小西家の酒荷の販売状況については、江戸店および江戸西店の「口銭目録」「諸勘定之覚」などの帳簿が多数残されているので、かなり具体的に明らかにすることができる。また伊丹の本家と江戸店・江戸西店との往復書簡が大量に残されていて、送り荷状況・酒相場・代金授受について今後の研究に大いに期待することができる。

 その一端として、「酒味淋(醂)勘定帳」によって、文化4年・同13年両年における小西家本蔵の酒荷の送り先問屋と販売状況をみると、販売先は江戸積みと地売り(爰元売(ここもと))に分けられ、その88パーセントが江戸積みで、残り12パーセントが地売りである。また銘柄は、白雪と若松であった。
 さて、そのうちの江戸積み分の江戸酒問屋別の送り先は、江戸出店である小西利右衛門が75パーセントと圧倒的に多く、残り25パーセントが7軒の下り酒問屋へ売りさばかれている。そして荷主・酒問屋との仕切り値段では、小西出店分送りの方が若干高くなっている点が注目される。ここに同じ江戸積み酒造家であっても、直接江戸酒問屋の出店を持つ者の有利性が実証されるのである。

 それが幕末期になると、先述の小西出店以外の7軒のほかの酒問屋への送り荷が滅少して、小西出店分が増加し、天保3年(1832)以降は小西家江戸西店の開業に伴い、そこへも送り荷されていくのである。
 そして安政4年(1857)になると、伊丹の小西家から積み出される酒荷のすべては、小西江戸出店と江戸西店で売りさばかれている。とくに天保末年から弘化期(1840年ごろ)にかけて伊丹酒造業が全般的に衰退し、紙屋(八尾)八左衛門をはじめとする有力酒造家が軒並みに没落していったことを考えると、小西家醸造の酒荷が、小西利右衛門・同利作の江戸出店・同西店に集中していったという事実は、それだけ同1資本系列のもとでの集中化を物語るものであろう。
 伊丹・池田は勿論のこと、灘地方の酒造家にあっても、上方荷主が近世前期から幕末期にかけて、一貫して江戸店として下り酒問屋を持ち続けてきたことは、むしろ異例のことといえる。近世後半期、台頭してきた灘酒造家との競合関係の中で、小西家が存続し、灘と同じく上昇しえた背景には、輸送手段としての樽廻船問屋への進出とともに、この江戸下り酒問屋の機能・役割を高く評価しなければならない。

 一般に幕末期になると、荷主(酒造家)と特定酒問屋との関係が密接となり、下り酒問屋の荷主支配が強化されていく趨勢の中で、小西家はより有利な販売条件を獲得していくことができた。
 他方、江戸酒問屋による荷主支配が進行していけばいくほど、むしろ酒造家と酒問屋が一体となって、本家(本店)一分家(出店)の関係が緊密化していった小西家の経営条件は、他の酒造家よりはるかに有利となっていた。
 委託販売による酒荷代金の延滞化と売掛代金の累積化が、幕末期上方酒造家の酒造経営を圧迫していく一条件となっていったことを考えると、幕末期の小西新右衛門およびその一統が発展し得た要因は、まさにこの点に求められるであろう。そして小西家の江戸出店と江戸西店は、明治期に入ってもそのまま東京酒問屋の富士本商店富士西商店として存続していったのである。


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5、伊丹町政と惣宿老・御金方、大名貸

 最後に小西家の家業としての酒造業の問題と関連して、伊丹町政とのかかわりあいについて述べておこう。

 伊丹郷町の発展は、まず16世紀末の天正年間(1573〜92)に15の町が成立し、ほぼ在郷町の体裁を整えたが、江戸積酒造業の始まる17世紀初頭から18世紀初頭にかけての1世紀に、伊丹郷町は飛躍的に発展していった。
 中でも寛文〜元禄期(1661〜1704)には酒造業の展開により、15の町で成立していた伊丹村は町数も増加し、元禄年間には24町にも広がり、伊丹村の発展は同時に伊丹郷町全体の発展につながっていった。

 伊丹が近衛領となるのは寛文元年(1661)からであるが、それ以前の代官支配の時期には、伊丹村(町)全体を統括する町惣年寄がおかれ、かつ伊丹村を構成する町々にそれぞれ庄屋あるいは年寄が置かれていた。
 町惣年寄の家筋として、野田屋・豊島屋・紙屋の3名がいて、この3名のうち2名が交替で町惣年寄を勤めていたと推測される。

 この伊丹村を統括した町惣年寄とは別に、伊丹が近衛家領になる前から、酒造家の組織として酒家年行司が置かれていた。これは酒家が年番で勤めるもので、いわゆる酒家仲間の占める比重が高くなってくるにつれて、次第に酒家年行司は一般町政にまで介入してくるようになった。
 そして寛文元年に伊丹が近衛家領となったのを契機として、酒家年行司は酒家仲間の世話役としてのそれにとどまらず、町政を担当する代表としての地位を築くようになってきた。やがてこの酒家仲間の年行司が惣宿老となって、町政に参画するようになった。これが元禄10年(1697)に、惣宿老制として制度化されていった。

 惣宿老の任務は、いうまでもなく近衛家領伊丹町を構成する町村全般に関する政務を職務とするものである。
 中でも重要な事項として、財務事務は御金方の所管事項として重要視され、また惣宿老の母胎である酒家仲間についての政務も重要なものであった。さらに郷町に起こった公事(訴訟)について処理することも、重要な所管事項であった。

 御金方については、近衛家への年貢の銀納や酒家の冥加銀の上納、あるいは御用金の納入、さらには年貢銀・冥加銀の一部を伊丹の酒家や一般町人に貸付けたり、あるいは大名貸として運用するなど、直接金銭にかかわる諸々の町政事務を担当するもので、近衛家から任命された。

 惣宿老の制度が作られた元禄10年には24人の酒家仲間が年番で担当していたが、正徳・享保ごろより、以前からの惣宿老の家筋が没落していったため、惣宿老となりうる家筋が減りはじめた。
 それは明らかに灘酒造業の台頭を前提として、伊丹酒造業自体が変貌し、近世前期の江戸積有力酒家が没落していく中で、この競争を克服して発展してきた特定酒家に限定されていった。つまり惣宿老制は、筒井(小西)新右衛門と八尾(紙屋)八左衛門両家を中心に維持されるように変化していった。
 そして天明期になると、惣宿老はついに筒井・八尾両家のみとなってきた。さらに文化・文政期には没落していく酒家に代わって、新しい酒家も台頭し、彼らが新たに惣宿老や酒家年行司に取り立てられていった。上島(油屋)八郎兵衛と山本(木綿屋)庄兵衛、さらに坂上(津国屋)勘三郎が、そうした酒家であった。
 そして元禄期から小西家と並んで惣宿老役を勤めてきた八尾家も、弘化期にはついに消え去っていくのである。

 このような惣宿老や御金方を中心とする伊丹郷町の町政史料が、小西家には「近衛殿御用」と書かれた箱の中に1括して残されている。またその年代は古い時期にまでさかのぼることはできないが、ほぼ享保期以降から幕末に至る期間までのその他の町政関係史料も所蔵されている。
 これらの史料は近世都市研究ないし郷町研究にとって貴重な史料であり、併せて郷町財政金融の研究にも役立つことであろう。

 なお、これに関連して銀札についても付言しておこう。17世紀の伊丹における酒造業の発展は、原料米・薪などの輸送・購入から酒・酒粕などの販売に至るまで、伊丹町内での貨幣流通がすでに広い範囲にわたって一般化していた。
 そして酒家や酒積問屋らの信用を背景にして、早くから私札が発行され、堂屋藤兵衛・紙屋8左衛門・薬屋伝右衛門の3名の町人が引き受けて、銀札が発行されていた。こうした銀札普及の背後には、元来金銀銭貨の貨幣鋳造権は徳川幕府によって独占されていたので、急速に商品生産なり商品流通が発展していった畿内、中でも酒造業が発展し、関連産業や流通の進展を促進していった伊丹のような在郷町では、流通貨幣の不足の現象に直面した。
 その貨幣不足を補うために、特定の在郷町の中で通用する私札が発行された。小西家では元和・寛永期という近世初頭の早い時期に、私札を発行した点は注目される。その点で、近世前期の信用貨幣の創造や商人発行の銀札などについては、後の大名貸の問題とともに、小西家の貨幣金融史研究にとどまらず、伊丹郷町なり大坂金融史研究にとっても、重要な史料を提供するものであろう。
 また同家の酒造資本の蓄積とともに重要な部門をなす大名貸についても、特に9代新右衛門(寛政8年〜嘉永2年)の時には、姫路藩酒井侯・肥後藩細川侯・尼崎藩松平侯をはじめ、宇和島藩・明石藩・高松藩・佐用藩・平戸藩・津軽藩など、その貸付範囲は広範囲に及んでいる。大名貸研究ないし財政金融史研究にとっても、今後の利用とその解明が期待されるところである。


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結び

 小西家史料の特徴は、同家が近世初頭より一貫して江戸積酒造業を家業として営んできたことであり、さらにメーカーとしての清酒醸造業にとどまらず、輸送面での樽廻船問屋、販売面での江戸下り酒問屋をも営んで、製造から輸送・販売の流通過程にまで進出していた点である。この点については、灘酒造家にもみられない特異な存在であった。
 このことが、伊丹酒造業の近世前期と後期では酒造家の変貌・交替を繰り返していく中で、小西家が最後まで酒造業にとどまりえた要因であろうと考えられる。

 しかし、伊丹を本店とする小西家が、江戸店・安治川店の出店を有して、それが総体としての小西家全体の経営の中で、どのように連関しあっていたのか、という点については必ずしも明らかではない。
 酒造業を中核とする酒造資本が、出店の個別経営といかに結合し、小西家同族を形成していたのか、また酒造蔵なり酒造株を分与して分家を輩出していくが、それが分家としての独立経営を指すのではなく、多分に名目の財産分与であって、実質は小西家本家が全経営を掌握していたのではないかという想定も立ちうるのである。こうした側面については、近世商家経営の研究と併せて、十分に研究していく必要があろう。

 また伊丹町政との関連で、領主近衛家と、伊丹惣宿老や御金方として、領主財政にどのように組み入っていたのか、また近衛家御用金と、それを拝借金として利付きで酒造家に貸付けられていく幕末期の領主財政との関係も明らかにされなければならない。

 明治期に入り、早速会計基立金の伊丹御用所として新政府との関連を強め、以後商法司、通商司のもとに新たなる商工業の再編に参画していく側面もまた、明治財政史の観点から、詳細に解明されなければならないところである。

 今回の小西家の酒造家資料調査が、史料目録の作成から、『伊丹資料叢書』として資料集が刊行されていく中で、近世経済史研究の上で小西家史料が投げかけてくれる幾多の問題や疑問点が、少しでも解明されていくことを切望しているところである。

(伊丹市資料修史等専門委員・関西学院大学教授)
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〔参考文献〕

『伊丹資料叢書8 伊丹酒造家史料』伊丹市、平成4年
『伊丹市史』第2巻 伊丹市、昭和44年
『伊丹市史』第3巻 伊丹市、昭和47年
柚木学『近世灘酒経済史』 ミネルバァ書房、昭和40年
柚木学「酒造」(『講座日本技術の社会史』第1巻) 日本評論社、昭和58年
柚本学『酒造りの歴史』 雄山閣出版、昭和62年
柚本学『日本酒』(日本の技術3) 第1法規出版、昭和63年


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