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史料に見る近世伊丹酒造業


酒造り

造酒秘伝書

造酒秘伝書表紙

江戸時代の酒造技術を伝えるものに、中世から近世初頭にかけてのものとして、『御酒之日記』と『多間院日記』があり、濁酒から諸白への清酒技術の過渡期のものとして注目されている。

江戸時代になると、『本朝食鑑』や『和漠三才図会』・『日本山海名産図会』などに酒造りの記述があるが、単独の酒造技術書としては、『童蒙酒造記』や『寒造酒屋永代記』・『酒造千代伝法』・『摂州伊丹満願寺屋酒醤油伝』などがよく知られている。

小西家に伝わる『造酒秘伝書』は、表紙は「造酒秘伝書」だが、その表紙の次に「摂州伊丹まんくわんしや伝」とある。満願寺屋は池田の酒造家をさしてのことであろう。

秘伝書というからには、自家の技術・流儀を書き留めておく、という性質のものであるが、ひとつには先進地の優れた技術を書き留め、それに学んで酒造技術を開発してゆくための手引書とされることも多かったと考えられる。そう考えると、この秘伝書の作者は伊丹・池田あたりの地理に疎い遠国の人か、などいろいろな想像もできるが、いずれにしろ、当時の酒造技術の先進地であるこの地方の酒造法を伝えたものである。

造酒秘伝書

本書は、宝暦2年(1752)秋、柴原救長によって筆写されているが、この人物については不明である。

内容はかなり詳細で、モト造りのうちでも、煮モト造り・水モト造り・菊モト造りを記し、仕込みから掛け添え、絞り上げ、火入れに至るまでのそれぞれのノーハウが書き留められている。また、辛口の酒の造り方をはじめ、長命宝酒・ほうめい(保命)酒といった薬酒の造り方、さらには変酒の直し方から、味醂・焼酎・醤油にまでおよんでいる。そしてそれぞれに火の加減、水の加減、保温その他の詳しい説明がつけられており、この地方の酒造技術が克明に書き記されている。


  ほうめい酒
一□(かカ)す拾貫め、しやうちう三升程取遣、是よりのちたれハ遣不
申候、此しや(ママ)ちう壱石ニ金銀花四匁粉ニして入、木酒ノかす
十三貫めこまかにして入かき合、此時ふたして食むしかゝり
申候、此食米上白餅米三斗五升一夜つけして、正月二月は人
はだより少ぬくミさまし、右之内へ入かき合、ふたして口を
包、むしろ二而一へんまき、七日めニ
一 生塩百め 米つふ程ニして其まゝ遺
一 肉桂(とんきん)半両 成程粉ニして遺
一 けいしん半両
一 けんふなし廿匁 身斗入さねはすし
一 ちやうし壱匁 粉ニして
一 白しつ廿匁 粉ニして
一 くこし廿匁 粉ニして、但くこ身の事也
一 金銀花拾匁 粉ニして
右七色七日め入かき合、まへのことく口仕つゝミ、是より七日
めゑふり入、又右のことくつゝミ、是より七日めゑふり入、此
時成程よく口をはり、惣様日数四十四五日五十日程あけ申候、
あけ候て十一日めおり引、大方壱升弐匁つゝたり

精米

うす場の図「摂津名所図会」より
うす場の図 酒造工程のうちで仕込みの準備段階として精米がある。精米の方法には、杵・臼を使って足で踏みつける足踏精米と、水車を利用する水車精米がある。はじめは足踏精米によることが多く、伊丹・池田・西宮・今津においても精米は人力に依存していた。しかし明和〜天明期には灘目地方において酒造技術の革新ともいえる水車精米が出現し、しばらくは足踏精米と併用されたが、後期にはもっぱら水車精米に移っていった。

『名所図会』が書かれた寛政8年ころにおいては、伊丹では精米はまだ人力に依存していた。

図の左上に、碓(うす)屋(臼屋)と呼ばれる米踏みたちが足踏みによって米を搗いている。図では9棹に各々1人ずつの碓屋が作業にかかっており、これによって搗き上がるモト米は、1日1人4臼(1臼=およそ1斗3升5合)、掛米は5臼で、上酒の場合は特に精白度を高めるため、4臼としている。したがって、この図の場合は1日に5〜6石の米を搗きあげることになる。そしてこの作業は碓屋で行なわれた。これに村して、水車による精米は臼1本で1日4斗を精白し、1つの水車に40本の臼がついていれば、水車1台で1日に16石の精米が可能であり、精白度も足踏精米がせいぜい8分搗きであるのに対し、水車精米ではふつうで一割搗き前後、幕末期には二割搗きから二割五分搗きが可能となった。


『日本山海名産図会』にみる酒造工程

米洗い

米あらいの図「日本山海名産図絵」より
米あらいの図 米洗いの前に、まず洗い場に設けられている内井戸の根水(ねみず)をくみ取り、一度からにし、新しい水が涌き上がってから洗米作業に取り掛かる。洗米は半切り桶ひとつに3人がかりで踏み洗いする。洗い水は40回、特に寒酒の場合は50回取り替え、米に付着した不純物をことごとく取り除いた。

蒸米

夜中、釜屋が起きてかまどに火を入れる。しばらくして釜の湯が沸勝するころ全員が起き出し、前日洗った米を、釜の上に据えた甑(こしき)にいれ蒸し上げるのだが、甑はかならず薩摩杉の正目で作ったものが用いられた。この蒸米の開始を「甑初め」といった。

麹(こうじ)造り

麹造りの図
麹造りの図 麹の仕込み作業は酒造蔵の「室(むろ)」で行なわれる。蒸し上がった米は冷ますため莚に広げられる。冷めると次は室に運ばれ、そこでおよそ半日程そのままにしておき、そのあともやし(穫麹)をまぜ込み、しばらくして、後に麹蓋に分け入れ、室のなかで積み重ねておく。翌日は数時間おきに良質の麹を均等に作るための作業が進められると、室に入れて3日目の朝、麹ができ上がる。

麹を造る室は麹菌の繁殖を促すため高温多湿が保てる小さな部屋で、壁や天井に籾殻などを詰め、室内は炭火で暖められていた。そのため暑さに加え、雑菌が繁殖しやすいこともあって、図中にあるように室の中の作業は裸で行なわれた。

モト(酒母)仕込み

モトおろしの図
モトおろしの図 蒸し上がった米を莚に広げ、それが冷めると、半切桶に分け入れる。この時半切桶には蒸米と麹・水が入れられ、半日程して水が全部吸収されると、手でかき混ぜる(手モト)。夜にはいって櫂で攪拌する作業を「山卸(やまおろ)し」といい、それから昼夜一時(いっとき=二時間)おきにかき混ぜて、3日目に半切桶からモト卸桶に移す。モト卸桶に移した後、時々櫂でかき混ぜながら3日程すると発酵し泡が盛り上がってくる。ここでまた半切桶に分け、およそ半日で自然の温気が生じる。寒造りの場合はこのとき湯の入いった暖気(だき)樽を半切桶の中へ入れる。このようにして温気が生じたころを見計らい、櫂を入れてかき混ぜながら冷ますと、2,3日中にモトができ上がる。

この作業は二階で行なわれ、モトができると荷担い桶で一階に下ろされ、3尺桶に集められる。

醪(もろみ)仕込み

もろみ仕込みの図
もろみ仕込みの図 3尺桶に集められた仕込みモトのうえヘ、さらに一定量の蒸米と麹と水を3回に分けて加えていく。これを掛け仕込みという。その妓初に加えるのを「初添(はつぞ)え」といい、添加すると昼夜二時(ふたとき)ごとにかき混ぜ、2日目はそのまま休み発酵させる。3日目にこれを3尺桶2本に分け、それぞれにまた蒸米・麹・水を加える。これが「中添(なかぞ)え」である。翌日さらにこれを桶2本ずつに分け、ここでも二時ごとにまぜ合わせ、翌日3回目の添加が行なわれる。これが最後の「留添(とめぞ)え」である。この後は発酵の状態に応じて櫂を入れ、醪の熟成をはかる。


 「仕舞歌」(酒造りの留添えの工程で歌われた)
お日はちりちり山端にかゝる
 わしの仕事は小山ほど
お日が暮れたら明りをつけて
 親の名付けの妻を待つ
親の名付けの妻さえあれば
 わしもこの夜に身は捨てぬ
お身は捨てゝも名は捨てなよと
 後に言葉を残された
仕舞ていなるか有馬の篭集
 おだて河原をたよたよと
たよたよ四捨八越して
 愛の小川の数知らず
有難いのは有馬の薬師
 様の御病気が湯でなほる
様の御病気が〜

以下も、まえの句を受けて尻取り歌のようにつづいてゆくが、
有馬・山口・小浜などの地名が詠み込まれ、丹波から当地への
路順なども含めて興味深い。


酒搾り

酒しぼりの図
酒しぼりの図 醪が熟成して8,9日を経ると、渋袋へ入れ、酒槽(ふね)のなかにこの袋を積み重ね、しぼる。酒槽の内部は竹の簀を立てかけ、底はゲス板を敷いて、酒が垂口(たれくち)へ流れやすいような構造になっている。

図には、ある程度までしぼっておくための「揚げ酒槽」と、しぼり切るための「攻め酒槽」が描かれており、どちらにも1日ずつかける。

しぼり上げられた酒は酒槽の底部にある垂口からでてき、これを澄まし桶に入れて、4、5日経つと底に滓(おり)が沈殿する。

これで酒の仕込み工程の全作業が完了するが、この完了時を「総仕舞(そうじま)い」という。この後はでき上がった酒を貯蔵するため、一定の温度で加熱して酒の腐敗を予防する「火入れ」が行なわれる。火入れが完了すると、囲桶に入れ、目張りをし、蓋をして莚で囲うのだが、この囲桶の林料には吟味された杉材を使用した。

これから50〜60日を経て初めてきき酒をし、その後さらに貯蔵し、秋になって4斗樽に詰められ、江戸積みされる。

以上が『日本山海名産図会』の記述を中心とした、寛政期ころの伊丹の酒造りの生産工程である。


酒造蔵の規模と酒造道具

「日本山海名産図会」の酒仕込工程図解
「日本山海名産図会」の酒仕込工程図解 『日本山海名産図会』の記述によれば、1モト(蒸米5斗を使用したモト)を毎日8石ずつ添仕込みしていくことを「一つ仕舞い」といい、酒造蔵の規模を表す基準となるものである。たとえば8石仕舞いの一つ仕舞いであれば、毎日8石の米を、また二つ仕舞いであれば、毎日16石の米を添仕込みしてゆくことになる。

したがって、酒造蔵の規模は仕舞い個数が基準となり、仕舞い個数によって酒造道具や、蔵人の人数がきめられる。『名産図会』の一つ仕舞いの酒造蔵の場合には、精米用の唐臼(からうす)17、8本、仕込み道具として麹蓋400枚、甑1本、半切桶200枚、モト卸桶20本、酒槽12石入艘、酒袋380枚くらいであり、1モトの蒸米に薪130貫目を要した。

文政9年(1826)、丹波屋孫右衛門から小西家ヘ、酒株・酒造場・酒造道具一式を譲渡したときの記録によると、譲渡された酒株は1,360石であり、これに付随する道具類は、12石船4艘、大桶31本、細高桶24本、3尺桶34本、モト卸桶18本、釜大小2つ、酒壷4つ、半切桶121枚、越木(甑)桶大小2本、漬桶3本、麹蓋およそ500枚、米通シ一式、白米船1、黒米船1、唐臼28となっている。


酒造株と株改め

酒株札
酒株札 大量の米の加工業である酒造は、近世幕藩体制の経済構造と深くかかわるため、幕府・領主からの保護と同時に厳重な統制下におかれた。他の産業に先立って酒株が設定されたのも、米価の調節機能等を酒造業に期したものであろう。

酒造株が設定されたのは明暦3年(1657)といわれている。酒造株とは、各酒造家の酒造米高を株高とし、この株高とともに酒造人の居所と名前を表示して各自に交付した鑑札である。そしてこの株札の所有者にかぎり酒造が認められ、しかも株高以上の酒造は禁止されていた。

幕府の酒造統制はこの酒造株高によつて実施された。たとえば不作の年などの減醸令においても、株高の何分の一造りと、株札の表示高を基準としていた。しかし株高が直接問題になるのは統制令が出されたときのみで、とくに統制令が実施されない勝手造りの時期には、株高に関係なく、各自が自由に酒造米高を増減するのが実情であった。

このため、減醸令が出された際に、株札に表示された届け出高と実造石高のあいだに大きな乖離がみられ、その不合理を調整するために行なわれるのが「株改め」である。

明暦3年の酒造株設定の後、減醸令の出された寛文6年(1666)に最初の株改めが行なわれた。この時は、明暦3年の株高に関係なく、前年(寛文5年)の造石数をもって株高とし、その二分一造りが発令されている。

ついで延宝8年(1680)、2回目の株改めが実施された。このときも、この年の減醸令に際し、前年(延宝7年)の実造高の二分一造りとされた。

次に株改めが行なわれたのは元禄10年(1697)である。これまでの株改めは減醸令の実施に対応して行なわれたが、この時の株改めは、急速に拡大発展した酒造業に対して、運上金の賦課を目的に行なわれたものであった。そのため酒造家は、5割という高率の運上金の負担を軽くするため、酒造米高を過小に申告したといわれている。なお、元禄10年の株高をとくに「元禄調高(げんろくしらべだか)」といった。

酒株之寄帳

幕府では酒運上による幕府財政の増収を期待し、運上金の賦課を実施したが、酒造家の過小申告などによって、上納された金額は幕府の期待に反して非常にわずかなものとなり、かつ酒価の高騰もあって、宝永6年(1709)には廃止された。

そして次に株改めが行なわれたのは天明8年(1788)である。これに先立って、宝暦4年(1754)に発令された勝手造り令以来、酒造業は実質的な自由営業期を迎え、株所持にかかわりなく、届け出さえすれば誰でも酒造ができることになっていたのである。

このような自由営業期をへて、天明6年(1786)に二分一造りの減醸令が出されると、前回株改めの行なわれた元禄調高と、それより90年をへだて、さらにその間に勝手造りの時代を迎えていた現実の酒造石高には、相当の隔たりが生じていた。そのため、天明8年、幕府では、天明6年以前の実造高を届け出させ、翌寛政元年(1789)に、これまでの株高を廃し、あらたに天明8年の届け出高をもって、これを「永々の株」として確認し、寛政の改革が断行されていくなかで、以後これに基づいた酒造統制がなされた。


正徳5年酒株の寄帳

正徳五年酒株の寄帳
正徳五年酒株の寄帳 正徳5年(1715)の伊丹郷町の酒造家69人の酒株103株、〆6万石の内訳を記載した帳面である。この年は減醸令が発令され、元禄10年(1697)に行なわれた酒株改め当時の請高の三分一造りに制限された。近衛家領伊丹郷の元禄10年の請株高(元禄調高)は1万6,296石余りとなっているが、これは運上金の賦課に対して上納金額を抑えるための数字であつて、実際にはおよそ6万石の酒造を行なっていた。

このようななかで正徳5年に至り、元禄10年株高の三分一造り令が出されたのである。三分一となると造石高はわずか6,000石余となるため、ここで株高の操作が行なわれた。

つまり、古来よりの伊丹町の持株48株(元禄10年請高1万6,296石余)と、正徳元年(1711)近衛家の所領が伊丹郷町において加増されたとき、あらたに伊丹の株となった55株(元禄10年請高2156石余)、計103株に対して、一株一株にそれぞれの割合で造石数を増やし、伊丹郷全体の持株を6万石としたのである。この株高の操作によって、三分一造りという制限下で伊丹郷は2万石の酒造を行なった。


当年酒造高ならびにモト入日期限申渡し

辰年酒造高ならびにモト入日期限申し渡し
辰年酒造高ならびにモト入日期限申し渡し
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                覚

                        惣宿老中

                        年行事中

一 当辰年酒造白米

  拾石ニ付七駄片馬垂

  御聞済之事

一 右(モト)入日限之儀は

  潤(閏)月も有之事故日限

  勝手ニ取懸り可申候乍併

  来春ニ長引不旬之酒

  造間敷事

右之趣酒家惣中江可被

申渡候事

        辰十月

                        兵庫

                        左衛門

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近世の伊丹は酒で栄えた町であり、領主近衛家も酒造業を奨励した。しかしそれはただたくさん造ればよいというものではなく、伊丹酒の値段・品質を維持し、なおかつ幕府の酒造政策のなかで他郷の酒造業に打ち勝って行くための伊丹郷独自の統制も行なわれた。史料は天保3年(1832)の近衛家の触れである。

第一条では、造酒高を白米株10石について7駄片馬(15樽)に統制している。

これは駄造り法といわれる伊丹郷独自の酒造統制であり、大量生産による酒の価格の下落を防ぐためになされた一種の操業短縮であった。

酒家の酒造高については各々の持株石数が定まっており、最大限その石数までの酒造が可能であった。そして凶作などで米が払底したときに発令される減醸令においても、この株高に比例して減石統制された。

第二条では、モト入日限について触れており、この年は閏月があるので、日限は限定しないが、来年まで持ち越すことがないよう触れている。これは酒の品質維持のため、寒造りを奨励した箇条である。


酒永代覚帳

酒永代覚帳
酒永代覚帳

年々記録される帳面で、その年の酒造に関する諸々のことが記されている。杜氏・脇杜氏の住所・名前、酒造開始日の天候、酒造工程、酒米の購入先や値段、仕込み量、その他薪代、樽代、さらにそれらが昨年と比較され、詳細に書き込まれた、まさに酒造の覚帳である。

酒・味醂勘定帳

酒・味醂勘定帳
酒・味醂勘定帳

江戸送りした酒・味醂の送り先と数量が整理され、それに対する代金の総計から、手数料や杜氏その他の酒造稼人たちに支払った給銀を差引いた純益を算出した勘定帳で、一年を単位として年々記帳されている。

酒屋働人取締りにつき申し渡し

酒造働人取締り覚
酒造働人取締り覚
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一 伊丹日用働致候者大概酒屋之普請方之働、冬ハ酒造之働、春働

  無之時ハ酒樽歩行荷持ヲ願、其外酒屋之働ニ而渡世致候上ハ酒

  屋ヲ大切ニ可仕筈之所、近年諸事放埒ニ成り働不情ニ致シ、或

  ハ相対約束之筋ヲ違普請方手つかへニ成り、其外段々放埒ニ致

  候由相聞へ候、向後吟味致左様之者有之候ハ、惣宿老・庄屋へ

  相断是非ヲ糺可申候、下ニ而相済不申侯ハ、惣宿老・庄屋より

  此方へ窺可申侯、急度可申付候

一 酒屋米踏働之事前方より相極、或ハ入用之時節ニ成共相極酒造

  之心当ニ為致置、他ノ家へ参俄ニ手つかへ為致候由不届ニ候、

  向後行方吟味致、其者之参侯酒屋へ相断、或ハ惣宿老・庄屋へ

  相断不届不仕様候ニ可致候、若下ニ而相済不申候ハ、惣宿老・

  庄屋より此方へ窺可申候、急度可申付候

   附り、其家之米踏共申合せ俄ニ碓ヲ相止メ酒造之難義ニ罷成

   候義度々有之由、以之外之不届ニ候、向後左様之義有之候ハ、

   早速惣宿老・庄屋へ相断其訳ヲ糺可申候、万一下ニ而相済不

   申候ハ、惣宿老・庄屋より此方へ窺可申候、急度可申付候

一 酒屋蔵働仕候者共近年過分ニ奢諸事放埒ニ成候由相聞へ候、常

  ニ主人主人より申付ケ相嗜申様ニ可申付候事

右之通町々年寄へ申触、向後不届之者有之候ハ、吟味之上、下ニ

而相済不申侯ハ、惣宿老・庄屋より此方へ窺可申候、米踏・頭領

共ニ急度曲事ニ可申付候

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酒造家に雇われ、普請仕事や米踏みあるいは酒樽運びなどに携わっている者の働き方について、その怠慢や違約の取締りを町々の年寄役の者に触れるよう指示し、なお解決できないものは惣宿老・庄屋より近衛家代官まで申し出るよう触れたものである。


蔵人

酒造に従事する蔵働人は杜司(頭司)・脇頭司・麹右衛門・モト廻り・釜屋・船頭(しぼり作業)など仕込み工程の責任者と、その他に追廻しや飯炊きといわれる、頭司以下全員の世話をする年少者がいた。そしてこの仕込み工程に携わる蔵人の他に、米踏み(精米)に大きな労働力を要した。

小西家の天保13年(1842)この「酒永代覚帳」から雇用人数その他をみてみたい。もっともこの年は酒造が三分二造りに制限され、白米1,000石の酒造株高に対し666石6斗の仕込みとなっている。

この年、小西家の仕込高およそ1,900石に対する、蔵人の延べ人数は2,491人、給銀は3貫141匁余り、また碓屋(臼屋=米踏み)は延べ2,907人、給銀およそ3貫3,409匁、この他に不定期の雇用人が延べ912人半、給銀912匁5分となっている。そして彼ら(不定期の雇用人は除く)に対する飯米およそ70石、その米代銀およそ4貫800匁、味噌225貫目、その代銀約230匁とある。飯米の量は1人1日1升3合程の割合で、蔵働人の給銀は3食のまかないつきであったが、1日1升3合の飯を食する重労働のほどが察せられる。


酒造蔵

酒造場の図
酒造場の図 酒造が寒造りに集中するようになると、極寒期の限定された期間にいかに量産するかということが重要な問題となり、それは作業場としての酒造蔵の拡充と、酒造道具の整備がなくては解決されないことであった。その結果寒造りにふさわしい酒造蔵である「千石蔵」の出現がもたらされた。

酒造蔵の坪数やその平面図を示す史料は乏しいが、天明8年(1788)、小西忠助所有の魚屋町の酒蔵の譲渡証文があり、さいわいこの蔵の酒造株高が994石5斗8升4合であり、当時の千石蔵の規模にごく近いものである。

この酒造蔵は、敷地が516坪余(表口12間余×裏口43間余)あり、代銀62貫500目で譲渡されている。居宅の他に、酒造蔵3蔵と臼屋・釜屋・澄蔵・納屋が付属しこの他、酒造株、酒造道具・樽印などが譲渡物件に含まれている。そしてこれらの蔵や道具類は、新造のものではなく、これまで使われてきたものである。

これを、安永8年(1779)の900石積み廻船1艘の新造費用が銀32貫740目となっている(のちに掲げる廻船加人証文)こととくらベたとき、いかに酒造蔵の費用が大きいかがわかる。

この小西忠助の譲渡証文にみるように、酒造業は一定の広さの敷地と、酒造蔵の建設、酒造道具の整備に多大な設備投資を必要とし、しかもそれを経営するにあたっての運転資金も考慮されなければならない。さらに、これだけの設備投資をしても、幕府の減醸令などが発令されると、減石分だけ蔵は稼働できなくなるわけであるから、つぎにつなげる資金の蓄積がなければならない。

このような点から、酒造業は当時の一般的な企業にくらベ、いわゆる分限者によってなされた事業であったといえる。


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