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第4章/国民生活安定の支えとなればよし
業茂、波乱の明治30年代に、貯金と生命保険の普及促進を図る。

◎日本貯金銀行と、真宗信徒生命の役員として

 小西新右衛門・業茂が日本銀行の監事の職を辞した後、再び銀行経営に手を染めるのは、明治28年 (1895)のことで、「日本貯金銀行」の頭取として、それから後に本格化する銀行事業のいわば黎明期を切り開いた。

 日本貯金銀行 (資本金50万円)の開業は同年3月15日、本店は大阪・淡路町に置かれた。この銀行はのち、明治の終盤近くまで存続し、東京貯蔵銀行、大阪貯蓄銀行、東京貯蓄銀行などと並んで、有力な銀行として発展していくのであるが、まだまだ資本主義が未熟なこの時代の中で、大きな試練を受けていくことになる。大阪ではすでに、大阪貯蓄銀行 (頭取・鴻池善右衛門)が明治23年に開業している。設立の中心人物は外山脩造。大株主には、豪商の鴻池、平瀬、山口の3家が名を連ねていた。

 貯蓄銀行については、明治13年 (1880)に東京貯蔵銀行が専業で初めて設立されて以来、いろいろ問題が指摘されてきたが、10年後の明治23年8月になってやっと、預金者保護と経営の健全性維持に重点をおいた貯蓄銀行条例が制定され、26年7月1日施行された。26年といえば、銀行条例や商法会社編も施行され、ようやくわが国の銀行制度や株式会社制度が法律的に整備された年とされている。ところがこの貯蓄銀行条例は、当時の経済事情にそぐわず、わずか2年後の明治28年 (1895)に再び大改正が行われている。

 日本貯金銀行は、この直後に設立された。この条例の改正で、下期より一気におびただしい数の貯蓄銀行の設立ラッシュを迎えることになるのだが、その口火を切った形になった。ちなみに、専業貯蓄銀行は、明治28年〜33年の間に、毎年ほとんど50行以上も増えていったのである。

 この間、社会は激しく揺れ動いている。明治23年にわが国で初めて経験することになった資本主義恐慌が、ようやく終息に向かうのは明治26年に入ってからである。

 業茂はと言えば、鉄道事業の発起に奔走する日々が続いている。明治19年の山陽鉄道、20年の川辺馬車鉄道、22年の摂丹鉄道、26年の阪鶴鉄道、摂津電気鉄道などと続く一連の動きは目を見張るばかりである。

 しかし、明治27年 (1894)には国運を賭けた日清戦争が勃発している。その戦争のさなかの28年1月、京都・花見小路の祇園有楽館で「真宗信徒生命保険株式会社」 (現・東京生命)の創立総会が行われていた。小西新右衛門は取締役に選ばれ、翌日の取締役互選会では、「その名望をもって創立会社の信用を高めるため (注1)」にと、取締役社長への就任が決定した。設立登記は3月22日、そして予定通り4月1日に、京都市下京区油小路御前通り仏具屋町で営業を開始したのであった。

 取締役社長  小西新右衛門
 専務取締役  高井幸三
 取締役  芝原嘉兵衛 鎌田勝太郎 豊永長吉
 伊丹弥太郎 高木善兵衛 牛谷寅太郎
 監査役  阿部市郎兵衛 渡辺甚吉 杉本新左衛門
 伊藤忠兵衛

写17 真宗信徒生命保険の創業当時の
本社社屋 (現・西本願寺伝道院)
「東京生命七十年史」より
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 真宗信徒生命保険は、西本願寺を背景として、有力信徒が発起したもので、資本金は50万円。これは当時の生命保険会社中最大である。本願寺を大株主とし、定款には純益金の10分の3を慈善資金として本願寺へ寄贈する旨の規定もある。同社の年史に述べているように、「本山自らの発意から生まれ、役員はもとより株主もすべて本山への奉仕を第一義とする篤信有力の信徒で固めたのであるから、単に経済的結合による他社とは全く趣旨を異にし、親子とも言うべき親密な間柄 (注2)」の特異な存在であったといえよう。

写18 開業広告 (東京日日新聞M28.3.26)
「東京生命七十年史」より
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 それだけに、創業早々から順調に業績を伸ばした。開業5年目の明治32年 (1899)には、保有契約高は1,000万円を突破、1躍、業界4位にランクされるところまで発展した。明治39年9月第6期末には50万円の責任準備金を擁するまでになっている (注3)。わが国における最初の生命保険会社は、明治14年に開業した明治生命だが、その後しばらくは続くものなく、21年になって帝国生命 (現・朝日生命)、22年に日本生命、大日本生命が設立されていた。その後、26年に9社、27年に12社、28年に4社、29年に6社、30年に3社と続出した。こうした中での事業展開であった。


◎厳しい試練を乗り越えて、次の時代の基盤づくり

 日清戦争は早くも、明治28年 (1895)4月には大勝利で終息するわけであるが、それを待っていたかのように、企業熱が非常な勢いで再燃し、明治20年前後のブーム状態を再現した。この企業の勃興は、明治28年下期から29年上半期にかけてもっとも盛んで、その間の企業資本の増加は驚くべき巨額に達した。明治27年に2,844であった会社数は、明治32年までに8,598となり、工場数は5,985から明治23年までに7,284と著しく増加した (注4)。資本金総額で見ても、2億4,500万円から一躍11億2,700万円に増加したのである。

 多くは清国からの巨額の賠償金3億6,400万円を当て込んだ零細会社であるが、予想に反して、賠償金は少しも産業のうえにはバラまかれることはなかった。そのほとんどが軍事費に充当され、再び海外に流出していったのである。

 それよりもむしろ問題なのは、戦後、金融は膨張して世間一般がぜいたくになり、銀貨の下落、はなはだしい輪入の増加を招いたことである。反動はすぐにやって来た。

 戦後の好景気は、早くも29年下期に反動の兆しを示し始めた。輪入超過が続き金融が逼迫する。たまたま大阪の糸商の不渡手形がきっかけで、大阪の十数行の銀行で取り付け (信用不安で預金を引き出すこと)が起こる。中には支払いを停止する銀行も出た。

 ほぼ同じ時期の貯蓄銀行の設立ラッシュについては、すでに述べた通りである。しかも、当時の銀行は資金量の零細なものが多い。これでは当然のことながら、過当競争には弱い。不健全な経営に走るものも数多く出る。こうした銀行が、33年〜34年の金融恐慌のときに、その打撃に耐えることができずに経済界を混乱に陥れるのである。

 日本貯金銀行は、大阪では大阪貯蓄銀行とともに大貯蓄銀行と呼ばれていた。経営も進歩的であった。たとえば、明治29年9月に貯菩預金の利子計算に初めて日歩単位を採用している。従来はみな月単位だったのである。大阪貯蓄銀行も同月これに続いたが、東京貯蓄銀行は明治33年4月になってからであった。

 業茂は、このころ前後して、ほかにもいくつかの銀行に関与している。明治29年7月には、地元の酒造仲間といっしょに伊丹銀行 (頭取・武内和三郎、資本金10万円)の設立にも積極的に参加し筆頭株主となっている。また、真宗信徒生命保険との関係で、明治29年3月には起業銀行 (頭取・阿部市郎兵衛、資本金200万円、本店・京都市)の監査役、明治33年には起業貯金銀行の監査役も引き受けている。

 明治30年4月にはこういうこともあった。

 日本勧業銀行設立に伴う巨額の株式申込金の払い込みで、各地の銀行が急激な預金の引き出しにあっているのである。ちなみに、その時の応募株数は総計73万0,495株、募集数の14.6倍、証拠金1,826万2,000円である (注5)

 景気のほうは、一時小康を保ったが、金利の高騰、輪入超過、正貨流出、株式下落の趨勢は、いよいよはなはだしくなり、31、2年ころから会社の解散、倒産があい次いだ。加えて米作不良。こうした状態が33年末から34年の大恐慌に発展していく。全国で銀行の取り付け騒ぎがあい次いで起こり、支払い停止や閉店になる銀行が続出した。

 明治33年末から34年7月初めまでの期間中、確実な記録に表われた休業銀行は52行にのぼっている (注6)。これらの多くは、その後明治38年末ころまでに解散、破産、廃業に追い込まれている。なお、休業には至らなかったが取り付けを受けた銀行は54行、この中には、払込資本金50万円以上の規模の大きい銀行が15行も含まれているのである。第百三十銀行 (明治11年設立)もそのひとつで、大阪における屈指の大銀行であった。頭取の松本重太郎は大阪財界を代表する人物の一人で、大阪手形交換所の理事長であり、日本貯金銀行の取締役の一人でもあった。

 こうした銀行動揺の連鎖反応は、特に大阪、京都を中心にすさまじかった。いかに確実な銀行でも急激な取り付けにあうと、支払資金が急迫するのは当然で、規模・内容ともに当時の代表的な大貯蓄銀行であった大阪貯蓄、日本貯金も例外ではなかった。

 「大阪貯蓄、日本貯金の両行は、それぞれ明治33年末において前者は657万円、後者は334万円の預金を有して、業界第1位と第2位の大貯蓄銀行であったが、明治34年4月17日から3日間猛烈な取り付けを受けた」と、『本邦貯蓄銀行史』は記録している。両行の3日間の払い出しは一挙に総預金の10パーセント以上を失うという大きなもので、このとき大阪貯蓄は親銀行の鴻池銀行から、日本貯金は日本銀行から援助を受けてこの危機を切り抜けている。京都でも、5月6日から3日間、貯蓄銀行が激しい取り付けにあっている。京都商工銀行や商工貯金銀行の取り付けをきっかけにして、大阪貯蓄銀行、日本貯金銀行も打撃を受けた。「とりわけ京都で最大の預金を有していた日本貯金銀行の預金滅少は、もっとも著しかった (注7)」という。

 貯蓄銀行は零細な貯蓄預金を取り扱うだけに、ひとたび恐慌が起こると、どうしても預金者の不安・動揺をモロに受けやすい。たとえ、有力な資産家の信用がバックにあり、預金は絶対に安全であると力説しても、取り付け騒ぎは治まらなかった。このような恐慌では、銀行の信用の厚い薄い、規模の大小に関係なく翻弄されるのである。

 このショッキングな取り付け騒ぎに鴻池家は嫌気をさして、のち大阪貯蓄銀行から手を引いている。貯蓄銀行はこの後もまた、日露戦争後の明治40、41年、第1次大戦後の大正9、10年の恐慌でも、同じような大打撃を受けることになる。日本貯金銀行は、業茂の没後 (明治39年)経営者に人を得ることができず、明治43年12月1日に解散し、その預金は郵便貯金に振り替えられた。

 結局、貯蓄銀行は、この恐慌によって手痛い打撃を受け、小規模なものは淘汰された。そして大銀行、とりわけ後年、5大銀行と称される三井、第一、住友、三菱、安田の主要銀行が著しく躍進したのであった。

 経済史では、維新以後、この日露戦争前夜までの時代を、わが国の資本主義発展の第1期として位置づけているようである。産業革命がどうにか完成し、産業資本主義が確立するまでの期間に相当するという。また、金融史的にも、各種の金融機関がようやく創設整備された時代で、次の時代の発展の基盤はこの期間につくられたとされる (注8)


◎伊丹の酒造業が近代化に遅れたことの教訓

 一方、この30年代の酒造業はどうだったのだろうか。日清戦争の戦後景気に少しは刺激されて持ち直す気配を見せたが、明治29年 (1896)の増税がまだ大きく足を引っ張っている。造石税が1石につき4円から一挙に7円になった。伊丹は明治20年代に入ってもまだ浮上できない。

 34〜35年まで造石高は下がる一方であった、そして、造石税は31年には1石につき12円に、34年には15円にと、天井知らずに上がり続ける。まるで34〜35年の金融恐慌に足並みをそろえて突っ込んでいくようであった。

 明治34年発行の『醸造雑誌』315号に「伊丹酒造業の衰微」と題する記事が載っている。

摂州伊丹は昔時酒造の主産地を以て世に称せられたるに、近来漸次衰退の傾向を示せるは同地の為に惜しむべきことなるが…昨今酒蔵二十戸前、盛時に比し4分の1となるに至れり。右は主として灘五郷の年々隆盛に赴けるに連れ其顧客を奪はるるに原因し、又醸造法の改良、販路の拡張等に力を尽くさざることも多少関係を有せるものの如し…同町の酒は東京に輸送するもの十中二三にして、多くは大阪に販売し、原料の米は近郷若くは三島郡に仰ぎ、水を西の宮より取り寄するは僅かに小西酒造のみなり。…

 これに比べて西宮の動きは早かった。政府は増税を考慮して、積極的に酒造技術の改善と経営の合理化を推進させ、生産コストの切り下げによって事態を打開させようとした。伊丹酒造改良会社 (明治21年)を生かせなかった伊丹と違って、西宮は好対照の取り組みをしている。明治20〜22年にかけて、西宮に2つの酒造会社が創立されている。日本摂酒株式会社 (社長・辰馬喜十郎)と西宮企業会社 (社長・紅野善3郎)である。この西宮企業は後の西宮酒造だが、2つの会社が酒造業の近代化、合理化に果たした役割は大きかった。いわゆる模範酒造場の構築がそれである (注9)

明治21年  煉瓦造りの蔵とし、火力に石炭を採用。
明治22年  醸造研究所の設立 (日本酒類試験所)。 (腕と面歴による柑灘の経験主義の限界に対して近代科学を持ち込もうとした)
明治23年  精米原動機の導入 (蒸気機関)。
明治31年  西宮米酒取引所の開設。 (古い商取引の慣行を破る積極的な試み)

 そのほか金融面では、すでに明治18年に恵美酒銀行を設立して酒造家をバックアップしているし、20年代には急速に市場を拡大し、宮水の利用や熟練した酒造労働者の吸収にも力を注いだ。こうして日清戦争を契機として、全国酒造業における灘五郷の位置を確立していった。この勢いは30年代にかけても続いている。明治36年 (1903)ごろには、これまでの東京市場中心の販売を改めて、大阪を中心とする近隣府県への地売りに転換していった。

 ちなみに、伊丹に蒸気力による精米機が導入されるのは明治40年 (1907)以降であり、酒造蔵内部の動力源が人力から原動機に変わるのは明治42年である。

 一方、造石税も37年にはさらに15.5円、38年には17円、41年にはついに20円になる。それほどに酒造税は政府の重要な財源だったのである。

 小西の造石高は、明治30年 (1897)に上昇傾向に転じ、順調に伸ばしている。30年の伊丹の酒造家上位4人の実績は、次のようになっている。

小西新右衛門  4,064石 (稼動蔵数4蔵)
稲野利三郎  4,031石 (稼動蔵数3蔵)
池上茂兵衛  1,398石 (稼動蔵数2蔵)
武内和三郎  1,069石 (稼動蔵数1蔵)

 明治20年 (表7)と比較すると、小西は倍増、稲野利三郎はやや増加、池上茂兵衛と武内和三郎は半減している。稲野はこの後34年に酒造業を廃業するに至る。

 小西の上昇傾向は表9の蔵数の変遷を見ても明らかである。明治26年 (1893)には、シカゴの万国博覧会に「白雪」を出品して金牌を受賞。まだ意欲の衰えていないところを示した。

 なお、小西家では、明治31年に家政改革の指針として「小西家家則」を定めている (注10)。これは、いわゆる家訓ではない。体制固めと従業員の結束を呼び掛けるものだ。

 この家則は、業務規程プラス就業規程ともいうべきもので、117条まである。東京支店と興業場の規程は別に作成されている。章のタイトルだけ拾いだしてみよう。

 第壱章 議事会  第弐章 分家  第参章 職制
 第四章 事務章程  第五章 計算  第六章 出納
 第七章 俸給例  第八章 恩給  第九章 賞罰例
 第拾章 服務規律  第拾壱章 店員身元保証  第拾弐章 執務時間
 第拾参章 休暇  第拾四章 疾病  第拾五章 別宅
 第拾六章 雑則

 内容的に見ても、たとえば、議事会は多数決だが少数者の意見も家長に上申することとか、毎年総利益の10分の1を積立金とし、純利益の10分の1を店員に配当・賞与として支給する、暑中休暇を6日間とする、生命保険 (養老保険)に入ればその保険料を支給するといったことなど、今日の目で見ても、なかなか近代的で合理的である。

 なお、この家則から当時の組織図を想定して見ると、次のようなものになる。

図7 明治31年当時の組織図
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(1)『東京生命七十年史』 東京生命保険 昭和45年 12ページ。
(2) (1)に同じ、 27ページ。
(3)「東京生命」営業案内パンフレットより。
(4)白柳武司著『財界太平記』 日本評論社 昭和4年 397ページ。
(5)『本邦貯蓄銀行史』 協和銀行 昭和44年 74ページ。
(6) (5)に同じ、 86ページ。
(7) (5)に同じ、 82ページ。
(8)橋詰明男編『金融大辞典』第1巻 日本評論社 昭和9年 517ページ。
(9)『西宮市史』第3巻、 215〜218ページ。
(10)『伊丹市史』第5巻、 264ページ。

[参考資料]

『本邦貯蓄銀行史』 協和銀行 昭和44年。
『生命保険協会八十年史』  (財)生命保険協会 平成元年。
小島恒久著『日本経済近現代のあゆみ』 河出書房新社 1991年。
『伊丹市史』第3巻。
『新・伊丹史話』 伊丹市立博物館 平成6年。

●財界活動関係年表 (1) 11考・業茂 (酒造関係は除く)

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