小西家には、千葉の「本間道場」、水戸の「東武館」とともに日本の3大私設道場といわれる修武館がある。
初代館長以来、代々、「生活即武道」の精神を教えてきた。それは、小西家の伝統的な行動規範を形成しているといってもいい。いわば、小西酒造のバックボーンである。
自主と礼節、責任と実行を第一義とする武道の本質に思いを致し、いたずらに技(わざ)を競い名を衒(てら)う武術であってはならない。日常生活即武道として、元気、胆力、無欲を鍛錬し、終始至誠、忠実篤行の人となれ。それをできた人が達人である。
この武道精神の修養の場として修武館が設立された。その由緒は約200年前にさかのぼる。
伊丹とその近隣11村を併せて、いわゆる伊丹郷町が近衛家領となったのが寛文元年 (1661)。幕府直轄の天領でもなく大名が支配する藩領でもない、公家の領地で、同じ封建時代の中にありながらも独特の治世が行われていたといっていいだろう。元禄10年 (1697)には惣宿老(そうしゅくろう)という民生機関が近衛家領内の司法行政を司るようになるのだが、その惣宿老の役目を伊丹の酒造家に仰せつけられることになった。小西家の4考 (4代)霜巴(そうは)もその1人として帯刀を許されている。その後、小西家は代々その職に付くことになるのである。
そのころの伊丹の繁栄は相当なものであったらしい。丹醸 (伊丹の酒)の町として有名であったばかりではない。諸国から文化人たちがたびたびこの地を訪れている。井原西鶴、西山宗因、頼山陽、松尾芭蕉、近松門左衛門などもやって来た。 さて、小西家の当主が朝巴(ちょうは) (7考)のとき、ただ1人で伊丹郷町の惣宿老を勤めることになった。政治や経済ばかりでなく、治安を守る責任も重くのしかかってくる。もとより、公家の領地だから、武士の統治するところではない。そこで朝巴は、伊丹郷町の自衛のためにと、天明6年 (1786)、領主の近衛家に私設道場の設立を願い出た。これが今日の修武館の始まりである。
明治維新を迎えて世の中が大きく様変わりする。明治2年 (1869)、小西家は道場を私塾として一般に公開した。そして、武道の一層の発展を願って、広く武道師範を招いている。
そういう時代に、文武に秀でた幕末の名だたる剣客・斎藤弥九郎が、新政府に仕え大阪に赴任した折にでも小西の道場に立ち寄ったのであろうか、直筆の扁額を修武館に残している。
道場を一般公開したものの、世の中は容赦なく剣道にとって悪い方向に進んでいった。幕末に隆盛を極めた剣術も、明治維新の大変革に際して一転して衰微への道を転げ落ちていく。明治4年 (1871)、廃藩置県で武士は禄(ろく)を失い、同じ年、さらに脱刀令が追い討ちをかける。
明治6年 (1873)、榊原鍵吉が「脱刀随意ノ令下リシヨリ剣術トミニ衰エ、府下有名ノ剣客自然オチフレシ…」と、生活の困窮を訴え、旧旗本有志との連名で「撃剣会」を催したいと願い出た。榊原鍵吉は直心影流の達人で、幕末、講武所教授方であった(注1)。彼は剣術を興行として行おうとしたのである。
この興行はたいへん人気を呼び、東京ばかりでなく、名古屋、大阪、九州など全国に広がった。江戸時代においては、剣術は一般庶民には縁遠いものであったし、実際の試合など目前で見る機会などもなかったから、もの珍しさもあって多くの人が見物に出かけたのであろう。そういう見せ物にしなければならないほど、明治初期の剣術の衰微ははなはだしかった。それまで剣術を指導していた剣客や町道場主は、もちろん失業状態でその生活は困窮を極めたのである。
小西茂十郎 (のちの11考・業茂)は、憤慨している。
「明治維新後、武術ノ衰微ニヨリ、多年ニ亙リ武道ヲ以テ人々ノ師表ニ立チタル人々ガ最モ悲境ニアリシ時コレラノ人々ヲ扶養援助」
しなければならない。
そして、明治7年 (1874)、揚武会を興す。時に21歳。茂十郎は、剣術ばかりでなく、柔術、薙刀、槍術、杖術、馬術まで手を広げ、そのうえ漢学者を招くなどして、一般子弟の教育の充実に努めた(注2)。
明治9年には、さらに廃刀令が発布される。竹刀の音を立てるの さえはばかる時代になったわけである。京都では、知事が「撃剣ノ稽古ヲスル者ハ国事犯ノ嫌疑者ト認メル」と布告して、公然と剣術を禁止する事態に至る。
そういうころに、伊丹の小西家では、おおっぴらに各種武術の師範を招いて稽古をしていたのである。当然、あちこちから暮らしに困窮した武術家たちが多く訪ねてくるようになり、ここに逗留して稽古をしていく。業茂は、そういう武者修行に立ち寄る人たちを泊めるために長屋も建てている。長屋といっても、いわゆる落語に出てくる熊さんや八さんの長屋ではない。2階建ての屋根つづきで、一戸ずつがそれぞれ玄関もあり庭もあるというもので、部屋にも贅を凝らした立派なものである。それらがL字型に並んで7〜8軒もあった。
写20 旧・修武館における稽古風景泊り客は武者修行者ばかりではない。文人墨客や勤王家も多かった。丹醸 (伊丹の酒)の楽しみもあったことは言うまでもない。逗留は短くて1カ月、それ以上に長い滞在になることがごく普通のことだったという。
彼らを世話する小西家に働く人たちは、この長屋を「やっかい長屋」と呼んだ。やっかい者が泊まるということではなく、武術家にしても文人墨客にしても、中には気難しい人もいる。その人たちをどのように機嫌をとってもてなせばいいのか、それがとても難しいところから、「やっかい」という言葉が出てきたのである(注3)。
少し後の話になるが、おそらく明治20年代の初めころであろうか、柔術で有名な田辺又右衛門が、このやっかい長屋に逗留している。当時の情景を作家・古賀残星が報知新聞の連載小説に描写している (資料2)。田辺は岡山の出身で、9歳から祖父・貞治について不遷流柔術を修行し、明治19年 (1886)に免許皆伝、その後各地で柔術を教えている。明治13年 (1890)に警視庁柔術師範となっているから、伊丹を訪れたのはこの間のことと思われる。新聞小説にもあるように、嘉納治五郎の講道館柔道に対抗意識を燃やしていたころのことである。
ちなみに、嘉納治五郎が講道館を開いたのは明治15年である。このころには剣術も復興の気運が生まれてくる。明治の剣聖といわれた山岡鉄舟 (一刀正伝無刀流)が春風館道場を開設したのもこの年である。時に47歳であった。武道が確かな理念のもとに近代を歩み始めたのである。
以後、大日本武徳会が設立される明治28年までの間は、警視庁における武道の奨励が大きな役割を果たすことになる。講道館柔道の躍進の契機となったのも警視庁武術大会であった。ここが武術の登竜門であり、総本山でもあったのである。
業茂は、小西家歴代当主の中では武道奨励に一番熱心であった。また、学問芸能にも熱心で、単に奨励するばかりでなく、自らも文武両道に秀でていたのである。後の章で述べるように、能もプロ級であった。明治16年 (1883)、日本銀行監事に就任し、東京・大阪を忙しく行き来するようになっても、著しく変転する世の中をまるで剣道や能の超越した境地から背筋を伸ばして冷静に見つめているようなところがあった。
明治18年 (1885)、業茂は、揚武会という名称を修武館と改め初代館長となった。自ら撃剣、柔術の師範もし(注4)、その意気たるや、「澎湃トシテ起コッタ泰西模倣ノ風習ニ対シテ、健全ナル日本精神育成ノタメニハ、武道ヲ活用スルコトガ唯一ノ絶対ノ道ナリ(注5)」との信念に燃えて、ますます武道の振興に努めるところがあった。「澎湃(ほうはい)として起こった泰西(たいせい)模倣の風習」とは、いうまでもなく、あの歴史に悪名高い鹿鳴館を指しているのであろう。
業茂の道場訓は、単に技の訓練に偏せず、精神鍛錬にもっとも重点をおき、上下の節度を学ばせるなどの根本理念が貫かれている(注6)のである。
修武館には常に一流の師範が迎えられている。
文道・太田北山、武道教頭・富山圓、剣術・岡本七太郎、弓術・佐久間静人、剣術・成富赫治、槍術・藤井貞臣、體術・山本精蔵、薙刀・美田村顕教、謡曲・谷市之進などが名を連ねている。 特に、天道流第14代宗家・美田村顕教とは意気投合するところが多々あったにちがいない。彼もまた、明治18年ころには、「維新以来、欧米諸国ノ文物風俗入り来タルニ当タリ、只管ニ之ニ泥酔シテ我国ノ精華タル国体ノ尊キサヘ自然忘却スルノ傾向ヲ生ジ来タリ、随ッテ我国固有の大和魂武士道モ落日ノ悲況ニ到ラントスルヲ概シ…」郷里亀岡に生徳社という同志を組織して、一般子弟に国典を講義したり武術を教授したりしていた(注7)。肝胆相照らす、おそらく思うところは同じであっただろう。
これは、富山圓についても言えることである。富山は嘉永4年6月、兵庫県の生まれ。幼少より父富山斎について武術を学んだ。このあと斎藤弥九郎、西尾源左衛門、桃井春蔵に随(したが)い、明治10年ころから18年ころまで警察の剣術教師をしていた(注8)。のち、業茂に共鳴し、修武館の教頭となる。
修武館師範の正式就任は、富山圓は明治26年 (1893)、美田村顕教は明治34年 (1901)となっているが、ふたりとも在住が近いということもあり、18年ころからしばしば出張教授に来ていた形跡がある。
明治20年代は、小西家にとっては鉄道事業に力を注ぐ時代であるが、業茂は、武術を決して片手間にやっていたわけではない。各地から剣豪を招聘し盛んに試合を催したり、修武館1党で諸国に武者修行と称して巡遊することもしばしばあった。日ごろの練習ぶりはというと、稽古の後の夕食時に酒をしたたか飲んで、それで休むのかと思うと、また、「おい、稽古をしよう」と富山圓に声をかける。2人とも酒が強かった。富山も業茂に声をかけられると否も応もない。鼻の頭を赤くしながら、また立ち上がる。また稽古が始まる。こんな具合だったから、まわりの人もたいへんだったに違いない。
少しのちの明治30年代のことになるが、業茂はよく富山圓や岡本七太郎を伴って、御影の師範学校にも出かけて行き指導していたようである。もちろん、地元の伊丹中学校にはしばしば顔を出している。剣道部の生徒の多くは、既に修武館で相当の技術を身につけていた。富山も両本もしばしばそこへ招かれて、活動はすこぶる活発であった。明治36年 (1903)には第1回校内剣道大会を行っている。近隣の諸学校の演武会にも出席しているが、業茂はそうした試合などのときは援助をおしまず、賞品を寄贈したりすることも忘れなかった。明治36年6月には、大阪の柏原中学校の振武館の開館式にも出席して、校長をはじめ教師たちにも指導をしているほどである(注9)。
「明治34年1月4日修武館初会式」という案内状が残っているが、ここに興味あることがのっている。先に述べた柔術の田辺又右衛門が修武館の師範をしていたころで、その田辺が撃剣の試合に、 撃剣の富山が柔術の乱取りにと、それぞれ両方の試合に出場しているのである。当時の武術家は、柔道家だから柔道だけ、剣道家だから剣道だけというのではなかったようである。
ところで、業茂の日課は、平常朝は必ず暗いうちに起き、朝食後しばらくは謡(うたい)で腹をこなす。それから書見。午後は3時ころから修武館に出て門弟を相手に稽古を始める。門弟といっても土地の若者だけではない。小西家では、社員はもちろん家族にいたるまで剣道を習わせているから、中には結構使える者もいた。この伝統は今も続いている。
明治28年 (1895)4月、京都では平安遷都千百年を記念して、大日本武徳会が創設された。まず、その創立の発端と沿革の大要を整理してみよう。歴史の表舞台にはあまり出てこないが、小西新右衛門・業茂は、これにも深くかかわっていたのである。
今日に見る平安神宮は、この年に、平安朝時代の大極殿を模して建てられたもので、桓武天皇が祭られている。この建立を記念する大祭に、第4回内国勧業博覧会の開催誘致が決まり、その余興の一つに、全国知名の武術家を集めて盛大な演武会を催す計画が盛り上がっていた。
大極殿の建設は、明治25年 (1892)9月23日の京都市会において議決されている。その地鎮祭が行われる予定の翌年9月3日には、市民総出で7日7夜市中を踊りまわる余興計画が持ち上がっている。当時、京都府収税長をしていた鳥海弘毅は、そんな恥さらしな余興は納得できないとして、替わりに「全国知名の武術家を会合して盛大な演武会を開く」ことを主張したが、だれ一人として耳を傾ける者がいない(注10)。
鳥海は刻々と近づいてくる地鎮祭の日にほとんど絶望しながら、かねてより武道の奨励に熱心だと聞いている伊丹の小西新右衛門のことをふと思い浮ベ、早速相談を持ちかけたと言う。
ある日、瓢然と小西家を訪ねて来た鳥海に、剣術の稽古をすませたばかりの業茂が稽古着のままで面会した。鳥海の回想によると、「直ちに演武会開催の企画の大要を語った。ところが氏は一言の質問もなさずして、両手を挙げて即座に賛成の意を表わし、我国武道の再興はこの一挙にあり、自身は応分の費用を負担し全力を尽して君の成功を助けるから、屈せずしてやるべしと、まじめにしかも熱心に励まされた」と語っている(注11)。この話がその後、大日本武徳会の設立という大構想に発展していこうとは、この時点では2人とも予想していない。しかし、この時は大方の賛同を得られず失敗に終わっている。
ところが、明治27年 (1894)に清国との間に戦争が勃発すると、事態は急展開する。市民の間に尚武(しょうぶ)の気風が盛り上がり、武術再興の声も高まっていった。そうした折、鳥海の私邸に丹羽圭介と佐々熊太郎の2人が訪ねてきて、武術教育による精神鍛錬と、そのための団体を組織することの必要性を熱心に説いている(注12)。もちろん、鳥海が前年に演武会の開催を主張していたことを知ってのことである。3人が直ちに意気投合したことは言うまでもない。早速、その場で、京都府知事・渡辺千秋に発起人総代を依頼することまで決めてしまった。
渡辺千秋は次のような条件つきで承諾している(注13)。
文中に出てくる壬生基修は平安神宮宮司、飯田新七は後の高島屋社長である。
その後、4月3日には発起人会を開いて、会の名称を大日本武徳会とすることと、会の基本方針「大日本武徳会施設要領」をまとめている。
大日本武徳会施設要(注14)
武徳殿の名称は、平安朝時代、大極殿の北面にこの名の建物があり、武人は平常ここで騎、射、その他の武技を練ったという故事にならったものである。平安初期には桓武天皇をはじめ歴代の天皇がその武術を天覧されたという。
4月17日には早くも設立発起人総会が行われている。「大日本武徳会設立趣旨及規則」を決議し、それに基づいて、会長に渡辺千秋、副会長に壬生基修が選出された。このように話が急速に進展していったのには理由がある。広島にあった大本営が近々、京都に移されることが公然の秘密になっていたので、その機に大演武会を開き、武術を天覧に供したいという希望があったからである(注15)。5月28日には、総裁に小松宮彰仁親王殿下が迎えられた。
なお、発起人には60名が名を連ねているが、その多くは京都府庁の官吏や府会議員、市会議員で、他府県人は小西新右衛門ひとりだけのようである(注16)。これも、創立前夜、影の推進者として重要な役割を演じたことによる参画依頼であろう。もっとも、このころ業茂は、京都に本社を置く真宗信徒生命保険株式会社の取締役社長に就任していたので、まったく京都に関係がなかったわけではない。
発起人の多くは、同時に進行していた平安遷都千百年記念祭や内国勧業博覧会の役員も兼務していたので、実際には同年7月25日に就任した評議員と幹事によって武徳会の方向が決められていったのである。業茂は、評議員と幹事を兼任した。明治30年の規則改正の折には、会長、副会長に次ぐ商議員の役職に就任している。商議員とは、規則第15条に「重要ノ会務ニ対シ諮問ヲ受ケ又ハ商議ニ応ズ」とある。
さて、武徳殿の建設については、当初、最初から常設の演武場を設けるべきだという意見と、毎年一回大演武会を開いて奨励にとどめるべきだという意見とに分かれて、なかなか結論が出なかったらしい。そうこうするうちに、日清戦争は大勝に決し、国民の士気が大いに高まると、武徳会の活動も大きく国民の共鳴を得るところとなった。とはいえ、武徳殿の建設はそれほどスムーズに進展したわけではない。建築費の4万3千円が集まらないのである。
武徳会は創立以来、会員の入会義金で運営されてきたが、明治30年(1897)7月1日現在、約2年間の会員数は90,237名、義金は59,101円21銭しか集まっていない。なにしろ、正会員義金1円以上、賛助会員義金10銭以上というレベルのことだから無理もない。同年12月の規則改正で入会義金を値上げすることと、全国からの会員募集に力を入れることが決められるが、この段階では、武徳殿の建設費を捻出することはとうてい不可能なことであった。59,101円の大部分は、既にこれまでの演武会等で使ってしまっている(注17)。業茂は、このとき1万円の寄付を申し出て事業を支援した。業茂にしてみれば、明治7年 (1874)に揚武会を興して以来の願いである武道興隆の再来を実現できるのなら、何ほどのことでもなかったのであろう。
こうしてようやく明治31年 (1898)、年度予算に武徳殿の建築費が計上されることになる(注18)。完成したのは翌32年の2月28日であった。
武徳殿も当初計画では、4間に8間の後殿 (天皇の休憩所)と、4間半に10間の武徳殿 (玉座および神殿)と、11間に17間の演武場を建てることになっていた。最終的には、武徳祭を平安神宮龍尾壇上で執行するために武徳殿と後殿は必要でなくなり、建築計画からも削除された。替わりに演武場 (のち、これを武徳殿と称した)を当初計画よりも広くし、東西15間・南北20間のものに計画変更されたのである(注19)
武徳殿はその後、武徳会が目覚ましい勢いで全国に広がっていくのと歩調を合わせて、長い間、日本武道の中心道場として武道家のメッカとなっていった。
明治39年 (1906)7月発行の『武徳誌』の創刊号に、同年5月31日現在の会員数が報告されているが、大日本武徳会創立後12年目にして、1,121,925人に達したというから、その発展ぶりは驚くべきものである。
さて話を転じて、演武大会そのものについても述べておかなければならない。
大日本武徳会の創立後まもなく、明治28年 (1895)10月25日、第1回武徳祭が平安神宮で行われた。その翌日からの3日間が各種武道の演武大会に当てられている。まだ武徳殿はできていないので、テント張りの仮設の演武場においてである。この大会はこれ以後毎年行われた。
第1回の大会に全国から馳せ参じた武道家は980名の多数にのぼり、剣術試合の出演者は320名に達した(注20)。また、第2回の29年 (1896)も、全国から1,440名の武道家が参加している。参観のために上洛した武徳会会員は12,000名と報道されている。この大会では、出演者の中から15名の剣客が選ばれて剣術精練証を受けているが、その中に修武館の教頭・富山圓がいる。 明治30年 (1897)の第3回大会には、1,065名の武術家と18,000名の会員が詰めかけた。明治31年 (1898)は武徳祭演武大会は中止された。三十三間堂で皇太子殿下 (後の大正天皇)の台覧試合が行われたからである。このときの演武には、剣術14組28名、弓術14名、薙刀2名、柔術5組10名が選ばれたが、ここにも富山圓と美田村頭教が名を連ねている(注21)。当時、2人とも名だたる武道家であったことが、この一事をもってしても分かる。
写21 大日本武徳会武徳殿(明治32年創建)演武大会が新築落成した武徳殿で行われるようになったのは、第4回大会からである。このときから、今後の開催日を桓武天皇の故事にちなんで、毎年5月4日を武徳祭の日と定め、引き続き演武大会を行うことに決定された。
明治32年からは8月に、大演武会青年大会も実施され、短艇競漕、剣道、柔道、遊泳が行われている(注22)。
回を重ねるごとに、演武大会への出場者は増えていった。第14回大会の記録(注23)には、遠く台湾や満州の旅順からやってくる武術家もいると書かれている。全国から武道家が続々と集まって来るのだが、不思議なことに、彼らの足取りは大会の予定日より早く、それも京都ではなく伊丹の方向を目指すことが多かったのである。業茂が武徳祭の前夜祭のような形で、伊丹で演武大会を開いていたからである。猪名川の土堤に仮設の会場を作って試合を行ったらしく、京都の武徳祭よりも、こちらの大会のほうがよほど盛り上がったものだ、などという言い伝えが残っている(注24)。
話は少しおおげさすぎるにしても、京都の本大会にはないリラックスした気分もあったであろうし、当然、「白雪」もふんだんに振る舞われたであろうから、武道家たちの気勢はいやがうえにも上がったことは容易に想像できる。このお祭り気分の武道大会は、おそらく業茂が亡くなる直前まで続いたものと思われる。
『武徳誌』のコラム (資料3)にもあるように、このころ、修武館には1,000人近い門弟たちがいた。薙刀を習う婦人たちも100名以上いたという。剣道や柔道を習う者が1番多く、槍や弓を習う者のほか、漢字、国学、英学、鼓、太鼓までも教えていると紹介されているが、それぞれ生徒がどれくらいいたかは分からない。もちろん月謝は無料であった。
業茂は馬術も得意とした。大阪の福島に小西家所有の広い土地があって、そこを馬場にしていた。伊丹から馬にまたがってはるばる出かけていったのである。また、晩年は水泳にも熱中した。50の手習いである。武徳会に水泳部門ができたとき、小堀流、水府流、能島流などの各流の練達の士が秘術を公開した。それを見て業茂はすっかり感心して、すぐに能島流の多田一郎を修武館の教師に招いている(注25)。そして、自ら率先して家人の止めるのも聞かず、魚崎に出けていっては遊泳に励んだ。伊丹中学の生徒たちも時々練習に加わったようである。
業茂は、明治39年、夏にはまだひとあし早い5月、遊泳できる日を待ち遠しく思いながら、魚崎の別邸でぽっくりと亡くなっている。享年55歳であった。大日本武徳会の名簿にある最終経歴には「秋津洲流剣法、本会名誉会員正六位」と記されている(注26)。
(注)
大日本武徳会は、明治35年 (1902)6月に武道家優遇例を制定している。本文中にも、範士、教士、精練証といった言葉が出てくるが、これは武術家に対する初めての称号授与である。毎年、一定の資格を有する者に銓衡委員会の推薦によって授与される。
範士とは、「斯道ノ模範トナリ兼テ本会ノ為メ功労アル者、教士ノ称号ヲ有シ且丁年ニ達シタル後四十年以上武術ヲ鍛錬シタル者」をいう。また、教士とは、「品行方正ニシテ本会ヨリ精練証ヲ受ケタル者、武徳大会ニ於テ武術ヲ演ジタル者」をいう。範士には終身25円以内の年金が贈られた。 (のち大正10年、新たに範士を授ける者に対しては贈与しないことに改められた)
この武術家優遇例は、大正7年 (1918)4月に、武道家表彰例と改称され、さらに昭和9年 (1934)2月には、新たに練士の称号が設けられた。なお、武道家表彰例は、昭和21年 (1946)10月、武徳会の解散に至るまで実施された。
注
(1)『剣道日本』聞き書き剣道史28 FujiyamaNET は「山は富士、酒は白雪」でおなじみの
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