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第7章/酒造経営、大躍進の時代を画す
大正期、灘五郷・西宮郷への進出で、伊丹の小西から灘の小西へと大発展を遂げる。

◎業精の活躍の舞台となる大正という時代

 日露戦争が勃発したのは、明治37年 (1904)2月10日である。そして翌38年5月にはわが連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に圧勝。講和条約が調印なったのはその年の9月であった。

 当時、俗に「20万の将兵の血 (または10万の英霊)と20億の国費」を投入して勝利したといわれた戦争であった。日清戦争時の数倍の戦費を費やしたにもかかわらず、賠償金は一銭も入ってこなかった。しかし、南樺太を手に入れ、遼東半島の租借権と南満州鉄道の権益をロシアから譲り受け、宿願の「大陸経営」の拠点を獲得している。

 わが国では、39年下期から熱狂的な戦後景気を迎え、また企業ブームが起こった。

 これには政府の積極策が大きく作用している。戦費外債 (10億円)の支払いのためにも、大陸経営のためにも、そしてまた戦後の新たな軍備拡張のためにも、巨額の財源を確保する必要があったからである。

 政府は、産業発展対策として、さらに外資を導入すると共に、鉄道を国有化 (明治39年3月30日公布)することによって民間資金を豊富にし、一方では、基礎産業 (製鉄造船・車両・通信機械など)の発達を図るため、少なからぬ補助政策を行った。さらにまた、戦勝で獲得した大陸の利権の開発を助長する政策をとったのである。

 その結果、金利は低下し株価は上昇して、異常なまでの企業熱の勃輿となったわけである。その熱狂ぶりは、たとえば、南満州鉄道会社創立に際しての、株式募集数が実に1,088倍にも達した (注1)という事実を見ても分かる。

 表 (10)に見るように、日露戦争後の事業計画資本は、明治39年と40年に集中している。しかも、その大部分が新設であった。経済史では、この時をもって、わが国近代産業の第一次発展期と位置づけている。

 この企業ブームは、鉄道の国有化が大きな引き金となった。小西新右衛門・業茂が関与した山陽鉄道や阪鶴鉄道はもちろんのこと、全国の90.9パーセントの鉄道が国有化されたのである。これまでのように各地バラバラの民営鉄道では、輸送に支障が起こり軍事輪送の障害にもなるというわけである。

 このとき政府は、先の官営払い下げの時と同じく、民間資本にきわめて有利な形で買い上げを行っている。民営鉄道会社が投資した額の、ほぼ倍に当たる高い価格で買い上げているのである。これによって財閥系の大銀行をはじめとする民営鉄道の株主たちは、大いに資産を増やした。そして、その資金を各種産業への投資につぎ込んでいった。企業ブームの花形は、電力と石炭であった。

 しかし、外債による借金政策にはおのずから限界がある。40年には早くも反動期に入る。1月21日、株価暴落。4月から5月にかけて支払いを停止する銀行が増え、休業銀行があい次いで、金融恐慌が全国に広がっていった。

 41年、42年の両年の事業計画は、盛時の約10分の1に激減した。43年にはやや持ち直すが、45年7月の明治天皇の崩御を機に行き詰まり、一大不況に突入していくのである。

 そしてこの恐慌と慢性不況が、第一次大戦の勃発にいたるまで続く。日露戦中戦後における行き過ぎた外資導入のツケが回ってきたのである。産業は設備過剰に悩み、輪入超過が依然として続いている。対外支払いのための財源も底をついている。わが国経済は、まさに破産寸前の状態にあった。企業や会社の破産が続出した。

 そこへ第一次大戦の勃発である。 (大正3年7月)

 株式市場が恐慌状態になったのは8月であった。輪出が激滅し、主要品が暴落した。銀行の取り付け、支払い停止、休業が跡を絶たない。中でも一番大きな影響を及ぼしたのは、北浜銀行の破産であった。大戦景気の恩恵に預かるのは、開戦後1年半近くの歳月を待たなければならなかった。


◎酒造経営に飛躍的な発展をもたらした業精の改革

 小西利右衛門 (業茂の長男)は、こういう波乱の時代に家督を相続して、小西新右衛門を襲名、12考・業精となった。明治39年 (1906)のことである。のちに、無二の親友となる小林一三もまた、この期に箕面有馬電気軌道 (現・阪急電鉄)を設立して、事業のスタートを切ったのであった。この小林一三との交遊については、別の章で取り上げることとする。

 伊丹の酒造業が灘に押され気味で、多くの酒造家が転廃業していきつつあった時期である。灘の台頭で丹醸酒 (伊丹でつくった酒)が衰退していく気運は、江戸時代の天明期 (1781〜88)や弘化期 (1844〜47)にもあったが、業精が家業を継いだころはその傾向がまた一段と激しくなり、存亡を問われるまで落ち込んでいたのである。

 業精は、すぐさま経営の近代化に乗り出した。この時代、こういう経営のやり方ではやっていけないと、これまでの業茂のやり方を一新する。思わぬとばっちりを受けたのは、ほかならぬ周辺に住んでいた地元の人たちであった。業茂の時代には、「寄っていらっしゃい、食べていらっしゃい、飲んでいらっしゃい」と、通りすがりの人であろうと、食に困っている人には食を与えた。当時、小西家の大食堂で寄食した人は、日に300人は下らなかった。それができなくなるというので、業精の経営近代化に反対した。こういうエピソードが残っている。

 業精は孤立無援、四面楚歌の中で神経衰弱になりながら、徹底した合理化を進めていった。明治36年に東京帝国大学を卒業して後しばらくは大蔵省理財局に勤務していたという秀才である。利発で、打つ手も的確であったようである。積極的に取り組んで小西家の酒造経営を改革し、早くも明治42年には、伊丹の造石高14,860石・20蔵のうち5,896石・5蔵、全体の3分の1 (39.7パーセント)以上の造石高を占めるまでに成長させた。

 明治43年 (1910)、業精は心機一転、夫人同伴で約1ヵ年にわたるヨーロッパ視察旅行に出かけている。民間レベルで渡欧するのはまだまだ先進的なことといわれた時代である。はたして何を学んで帰ってきたのか、それを推察する資料は何もない。

 明治末年から大正初期にかけての造石高は、全国的にも、灘五郷においても、また伊丹においても、ほぼ同じような増減で推移している。戦後景気の恩恵をそれほど顕著に受けているわけではない。

 大正8年 (1919)には全国で600万石を超え、伊丹でも2万石を超える記録を出しているが、この数字にしても、やっと明治21年の水準を回復したにすぎない、という見方もできる。

 しかし業界内部では、不景気の中にあって経営面で行き詰まるところも出て、酒造家の集中合併が静かに進展していた。大正期はまた、米騒動の嵐が吹きすさぶ厳しい時代でもあった。

 大正期における伊丹の酒造家数は、廃業や復活があるものの、ほぼ一定して14,5軒であるが、酒造蔵数は、明治末年から大正にかけて20蔵を超えるようになっている。これはほとんどが小西家による集中・拡大によるものである。いままでの伊丹では、酒造家1軒につき1蔵という形で酒造業が行われてきたが、ここへ来て小西家による酒造蔵の集中という形で拡大発展していく。その足取りを追ってみよう。

 小西家の大正期の発展は目を見はるばかりである。着々と布石が打たれていたことが分かる。

明治43年 灘五郷の東郷 (魚崎)に進出し、末広蔵と名づけて酒造を開始する。
大正2年 西宮郷に酒造蔵を建設し、酒造を開始する。
大正4年 「東自慢」の醸造元・鳴尾の辰馬半右衛門の酒造経営が行き詰まったのを機に、商標をはじめ酒造蔵、土地、建物などいっさいを買収。
新たに、西宮市今津に本辰酒造株式会社を設立する (資本金30万円)。
大正9年 理化学研究所が開発した合成酒の製造法に着目して神奈川県藤沢市に、大日本醸造株式会社を設立。合成酒の製造に着手する。
大正10年 合成酒の試験醸造のために、大和醸造試験所を大日本醸造株式会社の敷地内に設立する (資本金10万円)。
大正12年 合成酒企業化の目途がつき、大日本醸造株式会社と大和醸造試験所を合併して、大和醸造株式会社を設立する(資本金100万円)。
大正14年 樽詰め全盛からビン詰め商品へ移行しはじめたのを機に、新聞や月刊誌に広告を開始する。
キャッチフレーズは「天下之銘酒白雪」

 この年譜を見ても分かるように、小西家は、灘五郷への進出、西宮郷への進出、今津の酒造会社の買収を終えて、飛躍的に造石高を増大させた。ここにおいて本格的な酒造経営が始まったと見ていいだろう。大正3年に大戦が始まったときには、先行き不安から酒造を手控えている感もあるが、以後、好景気にもあおられて、毎年、酒造量が上昇。そして全国的に最高の造石高を示す大正8年には、伊丹の分に灘五郷 (西宮郷・東郷)の分と、本辰酒造の分を加えると、合計は、いっきょに35,135石を記録するにいたる。

 大正11年、この年、灘五郷で造石高が3万石を超える酒造家は次の4軒しかない (注2)

小西家「白雪」 下記合計37,665石  
  伊丹町内 9,913石 ・9蔵
  灘五郷 (西宮郷・東郷) 8,921石 ・8蔵
  本辰酒造 18,831石 ・11蔵
山邑酒造株式会社・魚崎郷「桜正宗」 36,071石  
辰馬吉左衛門・西宮郷「白鹿」 32,691石  
本嘉納商店・御影郷「菊正宗」 31,492石  

 小西家が大正4年に辰馬半右衛門の「東自慢」を引き受けたのには理由がある。小西では近世の江戸店以来、自醸酒だけでなく他醸酒も取り扱っている。「東自慢」の東京における販売を一手に引き受けていたのが、小西の東京における清酒問屋富士西商店であったからである。

 図9 江戸積み酒造地 gif

 この鳴尾の辰馬家は、幕末維新期にかけては灘五郷の中でもトップクラスの酒造家で、明治20年代、造石高は約15,000石、最高の明治39年には24,348石の実績を上げ、今津と西宮両郷に8蔵ずつ、計16蔵が稼動していた。それが大正期に入って、米相場の失敗が原因で行き詰まったといわれている。小西家がこれを再建してからは、造石高は常に10,000石を超えており、大正末年には、18,000石まで回復させた。

 先の年譜で、いまひとつ注目すべきことは、やはり合成酒への進出ということであろう。酒造家の小西がまたどうして合成酒なのかという疑問をだれしも抱くところであるが、もともと近世においても、米価の高騰を防ぐためにしばしば酒造制限が行われていたことを考えれば、決してよそごとではないことが分かる。

写25 創立時の大和醸造株式会社
(藤沢市 三楽オーシャン株式会社提供)
伊丹市史 第3巻より
gif

 大蔵省醸造研究所では、明治40年 (1907)ころから、米の使用を節約する意味から代用原料で清酒を作る実験をしていた。大正7年の米騒動が大きな刺激となり、理化学研究所の鈴木梅太郎博士 (ビタミンの発見者で世界的に名を知られている)が合成酒の製造法を発明したことが分かると、小西新右衛門はだれよりも早くこれに注目している。その将来性を見抜いて、すぐ大日本醸造株式会社を発足させたのである。この時の合成酒は、清酒を土台とした混成酒ではあるが、同年に出荷した数百石は好評を博したという。商品名は「新日本の酒」であった。

 これをさらに発展させるために、翌10年には、鈴木梅太郎が開発した合成酒 (通称「理研酒」、酒銘を「利久」といった)の企業化に取り組んでいく。大日本醸造株式会社の敷地内に、大和醸造試験所と称する工場が建設された。資本金を10万円とし、理研の大河内正敏、小西新右衛門ほか、三共株式会社の塩原又策など数人から出資を得た。この試験醸造は成功裡に終わり、大正12年 (1923)には新会社設立へと話が進んでいった。先の大日本醸造株式会社と大和醸造試験所を合併し、大和醸造株式会社が誕生した。資本金100万円、取締役社長には小西新右衛門が就任した。

 不況の折から、販売が軌道に乗るまでには時間がかかったが、合成酒の先駆けとして大きな意義を持つものである。しかし、この世界に類例のない独創的な商品が花を咲かせるのは、第二次大戦の食糧難時代を経験し、その後の生化学の発展を待たなければならなかった。

 なお、この会社は、のち昭和35年 (1960)に三楽オーシャン株式会社に経営権が譲渡されている。


◎数多くの「成金」を生んだ大戦景気だが…

 大正という時代は数々のドラマを生んだ時代である。もし、大正3年 (1914)7月に、第一次大戦 (当時は欧州大戦と呼ばれた)の勃発というわが国にとっては思いがけない好運がなかったら、わが国はまた、明治13〜18年の松方デフレに匹敵する深刻な不況と事業の大整理を必至としていただろう。

 この大戦の軍需ブームのおかげで、わが国は昭和時代に飛躍的な発達を遂げることができたのであり、昭和10年 (1925)前後に世界の一流工業国の一員になれるところまで成長できたのであった。それもすべてが、この大戦時における巨額の企業利潤の賜なのである (注3)

 わが国の鉱工業、海運、造船、銀行、商社などの基礎は、この時期に飛躍的に強大なものとなった。大戦景気は、大正4年末ころから5年の初めにかけて、どっと押し寄せてきた。最高潮に達したのは大正6年から7年にかけてである。

 大戦が大規模で長期化するという思惑と、各方面にわたって積極的な経営者が成功して成金的巨富をつかんだことが、輪をかけたように強力な投機熱を生んだ。日本の商品がアジア市場に急速に進出し、貿易収支は大幅な輸出超過を引き起こす結果となった。

 世界的な船不足で、わが国の海運業や造船業は空前の好況となった。薬品、肥料、染料などの分野ではドイツからの輸入がとだえたため、国内では化学工業が発展した。

 表 (16)を見ると、そのすごさが分かる。『大正昭和財界変動史』は次のように当時の状況を分析している (注4)

 株価は投機人気を代表する東株でも約3倍であるが、綿糸は4倍余、鋼材約10倍、海運賃14倍であった。大戦景気の中核をなした物価騰貴のおおよその高さを窺知し得るであろう。これに反し、生糸や穀類等の如く物価騰貴が僅かに2倍内外に止まるという、跛行現象がまた大戦景気の一大特徴であった。…
景気水準の跛行は、業種別企業利潤にヨリ集中的に現われている。例えば…戦前に比し戦中最高の企業利潤率のそれの高騰率は、造船11倍、鉱業10倍、海運並に機械造車の各約8倍、肥料化学の約5倍、紡績、製紙の約4倍、石油石炭の約3倍、電燈電力の約2倍というが如くである。この企業利潤率の中には、高利潤ほど隠された利益が少なからず含まれている。…

 空前の大好況に「船成金」「鉄成金」などが次々と誕生したのも、なるほどとうなづける。こうした「成金は、きそって土地を買い別邸をつくった。そして土地、建築、書画、料亭などの関係者がひともうけした。いま住吉、芦屋、御影、舞子にある大邸宅は、この時代に着工されたものが多い (注5)。」と、宮本又次は『関西財界外史』に書いている。

 政府はあまりの投機熱を抑えるために、暴利取締令 (大正6年9月)や戦時船舶管理令 (船舶を外国に貸与したり売却したりすることを禁じる)を公布した。全く前例のないことであった。

 一方、これまで豊作続きで値上げのタイミングを逸していた米価が、大正6年以降急速に高騰しはじめて、翌7年8月に「米騒動」となって爆発した。

 この大戦は大正7年11月に休戦が成立するのだが、すでに国内では社会不安が表面化しつつあった。好景気の波に乗った事業とそうでない事業の格差、生活費の高騰、産業では原材料や機械の不足と労働力の不足が叫ばれ、賃上げ要求による罷業も激増していた。

 先に見た小西家の大正期における酒造経営の展開は、このような大戦前後の複雑な事情が背景にあったのである。


(1)高橋亀吉著『大正昭和財界変動史』上巻 東洋経済新報社 昭和29年 4ページ。
(2)『伊丹市史』第3巻 358ページ。
(3) (1)に同じ、 21ページ。
(4) (1)に同じ、 100〜101ページ。
(5)宮本又次著『関西財界外史』戦前編 関西経済連合会 1976年 128ページ。

[参考資料]

高橋亀吉著『大正昭和財界変動史』上巻 東洋経済新報社 昭和29年。
島恒久著『日本経済近現代のあゆみ』河出書房新社 1991年。
『伊丹市史』第3巻。 『西宮市史』第3巻。

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