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第10章/「生活即武道」を実践に移す
小西の剣道史は、修武館2代目館長・業精の時代を迎える。

◎真貝忠篤に学び一念発起する業精

 明治39年 (1906)5月、小西新右衛門 (11考・業茂)が亡くなり、長男・利右衛門が家業を継承して、12考・業精を名のる。時に30歳であった。修武館では2代目の館長を迎えることとなる。

 写28 明治20年の終りごろに書き換えられた扁額
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 業精は明治8年 (1875)11月9日の生まれ。東京府立一中から仙台の第二高等学校を卒業した後、東京帝国大学へと進み、明治36年 (1903)法科政治学科を修めた。その後、大蔵省理財局に勤める。ずっと東京生活が続いていたのである。

 伊丹に帰ってきた業精は、もちろん本業の酒造業の近代化が第一の仕事であったけれども、剣道にもいままで以上に打ち込んだ。39年前後の修武館の状況は『武徳誌』のコラム (66ページ参照)に見るとおりである。その後、一時竹刀の音が低くなった時期もあるが、業精はすぐこれを建て直している。

 師範の富山圓が大日本武徳会の仙台支部へ赴任することになり、急遽、東京から真貝忠篤を修武館に招いて、その門に入り、一から修行をやり直した。真貝忠篤は当時、慶応義塾の師範をしていたが、業精は日を決めて、わざわざ東京から足を運んでもらうことにしたのである。

 真貝は、慶応の前は学習院で師範をしていた。業精はその学習院の道場で、初めて稽古をつけてもらったのではないかと思われる。業精は東大だったが、学習院にはふたりの弟、壮二郎と慎三が学んでいた。ふたりとも剣道と水泳 (当時は水泳も踏水術といって武術の一つとされていた)をやっていたので、業精はそこへしばしば出かけて行ったようである。東京で修練したと言っていた水泳の流儀も弟たちと同し小堀流であった。この古式泳法は、当時学習院で盛んに行われていた泳法なのである。業精は、剣道も水泳といっしょに学習院で稽古をしていたものと思われる (注1)

 「田宮流剣術初伝」という巻物が残っている。業精が明治40年に真貝忠篤から貰ったものである。真貝は明治41年、67歳で範士となった。「大日本帝国剣道形」の制定にも関与している大ベテランである。天保13年 (1842)美濃大垣藩の師範・真貝吉蔵の7男として江戸藩邸で生まれ、12歳で有名な田宮流の島村勇雄のもとに入門して修業し、ついに師をしのぐ技量に達したという。維新のときは、撃剣興業で食いつなぎ、のち警視庁や皇宮警察の師範も務めた (注2)。「小手斬りの真貝」として有名だった。

 業精は、この真貝忠篤から、文武一道、公明正大、至誠を第一義とする精神を教示されるのである (注3)

 業精はまた、薙刀も天道流の美田村顕教に学んでいる。業精は二刀もよく使ったが、これも天道流のものと思われる。

 明治44年には、岡本七太郎師範から「神道無彊流剣技」と書かれた巻物を受けている。

 当時、「修武館奥之形」というのがあった (注4)。制定された日時は定かではない。富山圓師範の直心影流、美田村顕教師範の天道流、真貝忠篤師範の田宮流、岡本七太郎師範の神道無彊流、それに成富赫治師範のもの (流儀不明)から、それぞれ1本、合計5本である。

 業精の代になってからの修武館は、稽古は剣術と薙刀だけとなった。師範が顔を見せないときは、若い門人たちの指導には、業精のほか、会社の社員でよく使えるものが協力して当たることもあったようだ。業精も業茂と同じように、社員に対して武道を奨励したので、社員の中には相当使えるものがかなりいたのである。

 大正期に入ると、伊丹の裁縫学校の生徒たちが修武館で薙刀を習うようになった。指導には、修武館の師範・美田村千代があたっている。美田村頭教の姪でのち養女になり、頭教亡きあと天道流を継いで15代宗家となっていた。父・頭教とともに第一回武徳祭演武大会にも出演した腕前である。裁縫学校の生徒たちの授業は学年別になっていたのであろう。1時間おきに交代で生徒たちがやって来たという。

 大日本武徳会に薙刀部が設けられたのは明治39年で、その後、女子の学校教育として各地で薙刀が採用されるようになっていたのである。

 真貝忠篤師範は相変わらず、東京から伊丹へ足を運んでいた。業精は、業茂時代の先例に習って、伊丹中学剣道部の指導を継続していたが、大正4年 (1915)4月には、真貝忠篤にも指導をさせていたことが記録に残っている。修武館が学校剣道に果たした役割は誠に大きなものがあるといえよう (注5)

 今日では当時の状況を知るものは少なくなったが、大正6年に修武館に入門した松本敏夫 (のち、昭和46年に修武館の師範)は、当時の思い出を語っている。

 当時は小学校4年生だが、ある日、東京から真貝先生が来るというので業精といっしょに伊丹駅まで迎えに行った。そのときの印象が忘れられないらしい。「大先生だというので、きっと偉丈夫の方だろうと想像していたら、小柄なご老人だった (注6)」という。

 また、松本が伊丹中学のころの大正11年 (1922)、富山圓が再び修武館に掃って来る。仙台へ赴任してのち、さらに台湾へも指導に行っていたのである。その富山から、松本は次のようなことを言われたことを、今もよく覚えている。

 「稽古では3尺6寸か7寸、どちらにしても短い竹刀をぐっと構えて歩み足で腰から攻めてこられた。ところがぼくが学校で習っているのは送り足。ときどき先生が首をかしげて、お前たちおかしいねえ。学校でどんな剣道を習っているんだ。どうして右足からしか出てこんのだ。そんなのは剣道形にない (注7)」と言われたそうである。

 大正9年に真貝忠篤が亡くなり、以後、修武館では富山圓師範と美田村邦彦師範の時代が長く続いた。のち、松本敏夫は精進してこの富山圓から直心影流の免許を受けている。

 小西家の酒造業は、業精の努力で大正期に大発展を遂げる。さらに後半には、業精は銀行経営にも関与してめまぐるしいほど忙しい毎日を送っていた。しかしどんなに忙しくても、剣道と能の稽古だけは怠らなかった。

 昭和6年 (1931)のことだが、昔の学連OBを主体とした「大阪剣道同好会」という集会ができたときにも、業精は喜び勇んで入会している。そして、それからはさらに稽古に励むところがあったようである。

 この同好会は、旧制の高等学校、専門学校以上の卒業生で、しかも四段以上の技量の持ち主という入会資格がついていた。毎月1回、幹事持ち回りで例会が開かれる。阪急、住友化学、久保田鉄工、日本生命、次々と道場を替えて稽古をする (注8)。当然のように、新年は小西酒造の当番に当たるわけである。いちばん気の許せる友との集いほど楽しいものはない。このころ業精は、これをいちばんの楽しみにしていたのではないだろうか。

 昭和9年 (1934)になると、世の中が次第に騒然となってくる。日本は三大強国の一つに数えられ、日本商品の海外市場への進出が世界の脅威になっていく。軍部の力は日増しに強くなっていった。業精は、「光輝ある国史の成績は武徳の発揚であるが、軍国主義は武徳の発揚ではない。武の濫用であり、英雄の末路がそれである (注9)」と言っている。自分がこれまで打ち込んできた剣道への思いを裏切られるような気がしたのであろうか。

 この年の6月、大日本武徳会に「薙刀術教員養成所」が設立された。修武館の美田村千代師範が養成所の主任教授として、また、美田村邦彦師範が同養成所の「済美寮」舎監として転出した。

 ちなみに、大日本武徳会の武術教員養成所は、明治38年に開設された。これが43年に私立学校令により武徳学校となり、さらに柔・剣術の正科採用との関連から45年には武徳専門学校となる。その後、大正8年にまた武道専門学校と改称された。

 この養成所には、のち、業精の娘・小西静子が入門することになるのである。

 このころ、つまり昭和8,9年ごろ、業精は先年亡くなった真貝忠篤師範の遺徳を偲んで、後継ぎの真貝寅太郎を師範に迎えた。そのときのエピソードにこんなのがある。これも、先の松本敏夫の経験談である。

 「ぼくが21,2歳、昭和8年 (1933)ごろになるでしょうか。業精先生に、おまえは富山先生の直心影流だが、真貝先生の田宮流にも随身せよと言われて、名古屋在住の忠篤先生の息子さんという方のお宅に連れていかれ、血判を押して門人になった (注10)」という。

 業精は、この真貝寅太郎師範から昭和10年に「田宮流剣術二巻目」を受けている。


◎修武館、財団法人化の機縁となった父娘の愛

 さて、薙刀術教員養成所の話に戻そう。昭和13年4月、小西静子 (大正7年生まれ)が第5期生として入所した。前述したように、美田村千代師範、美田村邦彦師範の指導を受けることになる。業精は娘・静子の入門をことのほか喜んだ。

 養成所は、京都・左京区岡崎にあって全寮制、養成期間は1年。期間中は1日たりとも帰宅は許されない。一期先輩には美田村武子 (美田村千代の娘、のち天道流16代宗家)がいたが、寮と自宅が目と鼻の先にあっても1度も家に帰らなかったと、静子は聞かされていた。この静子が雑誌の座談会で回想している。

 「朝食はごはんと一汁とたくあん、昼食もごはんとたくあん、タ食はごはんと一菜とたくあん、一菜といってもたいていはキャベツをいためたもの。教室での講義もありましたけれど、ほとんど道場での実技でした。日曜日も日の丸弁当を持って、邦彦先生に引率されて山に出かけます。といってもピクニックではありません。お山で発生練習をするのです (注11)。」

 「養成所を卒業するときには、生徒は異種試合といって、剣道と試合をしなければいけないことになっていました。その稽古をお願いするのに邦彦先生だけでは手が回らない。そのとき、この元立ちを買って出たのが父・業精でした。今にして思えば、もう娘かわいさの一心だったのでしょう。熱心に京都まで毎日、通ってきてくれました。翌年からは、その父も全く姿を出さなかったといいますから勝手なものです。なお、この異種試合に備えたお稽古には、真貝寅太郎先生もいっしょに来てくださっていました。」

 小西静子は昭和14年3月18日、晴れてこの薙刀術教員養成所を卒業した。後年、全日本なぎなた連盟会長として斯道に貢献している。

 業精が修武館を財団法人にしようと思い立って、準備を始めたのはこの翌年である。

 小西家代々の当主が武道をするのであれば問題はないが、時代が変わればいずれテニスがいいとか、野球がいいという当主も出てくるだろう。そうなっては修武館の存続も危ういと考えたのである。武道と修武館を愛する業精の強い思いがそうさせたのであろう。財団法人の正式認可は昭和17年に下りた。

 写29 修武館武道摘要
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 大阪府警の剣道師範・越川秀之助を修武館に迎えたもこのころである。すでに太平洋戦争に突入していた。業精は、昭和15年1月に、武徳会理事・剣道教士の立場で、武徳会の武道考査委員会特別調査委員会の委員の一人として、「薙刀学校形」の制定にもかかわっているが、軍部が武徳会に関与してくる16年には、大日本武徳会を辞している。

 昭和18年、戦時下ながら、業精は「修武館武道摘要」を館頭に掲げ、門弟たちに訓示している。

 修武館武道摘要

 一
吾修武館ノ武道ハ大日本国民固有ノ精粋ナル元気ヲ鍛錬スルノ方法ニシテ徒ラニ技ヲ競ヒ名ヲ衒フ而己ノ芸術ト誤解スル勿レ

 一
夫武道ハ誠ヲ以テ本トス故ニ道場ニ立チ刀槍ヲ取り初メテ武道アルニ非ス、行住座臥応対進退造次顛沛ノ間皆武道ヲ離ルル事ナシ君ニ忠ナラサル武道ニアラサルナリ、父母ニ孝ナラサル武道ニアラサルナリ、朋友ニ信ナラサル武道ニアラサルナリ、終始、至誠、忠実、篤行ノ人ヲ以テ此道ノ達人トス

 一
此道ヲ修スル者ハ平常無欲淡泊ナルヘシ、心ニ欲アレハ気沮ム気沮メハ刀法渋滞シテ勝負利ナシ

                      昭和18年4月    小西業精 識

 戦局は日に日に逼迫し、伊丹にも空襲の恐れが高まる。それは残念ながら的中するのだが、とにかく大きな構えの屋敷ではひとたび空襲にあうと、延焼を防ぎようがないからといって、道場を疎開させるつもりで取り壊してしまった。昭和19年 (1944)のことである。

 そしてまもなく終戦。修武館が戦後、道場を再開することになるのは昭和25年11月である。一般ではまだ剣道は再開されていない。

 明治・大正期という小西家の近代史の中にあって、業茂と業精は数々の有形無形の大きな遺産を残した。修武館もその大きな一つの舞台であった。共に剣道を愛し、能にも熱中したが、あらゆる面でふたりは対照的であった。業茂は骨格のがっしりした人で、竹刀も太くて短いものを使った。肚 (はら)の稽古だといわれた。一方、業精は、背が高くすらりとした体格で軽妙機敏。上位の人には二刀、下位の人には一刀をもって対した。技の稽古といわれた。フェンシングにも造詣が深かったことでも、それがよく分かる。

 修武館では、今でも何か行事を行うときには、業茂と業精がそれぞれ生前に愛用していた道具と竹刀を神前に飾る習わしになっている。これらの道具や竹刀を見ても、ふたりの体つきの違い、稽古の違いが分かるという。


(1)『剣道日本』 (聞き書き剣道史29)。
(2) (1)に同じ。
(3)『修武館沿革』。
(4) (1)に同じ。
(5)『スポーツ人風土記』兵庫県下巻 道和書院 昭和50年 131ページ。
(6) (1)に同じ。
(7) (1)に同じ。
(8) (1)に同じ。
(9) (3)に同じ。
(10) (1)に同じ。
(11) (1)に同じ。
(12)大日本武徳会『武道専門学校史』武道専門学校剣道同窓会 昭和59年 181ページ。

[参考資料]

大日本武徳会『武道専門学校史』武道専門学校剣道同窓会 昭和59年。
『修武館沿革』

●修武館沿革

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