home 戻る


第11章/小林一三と阪急の飛躍、白雪への応援
伊丹は阪急神戸線本線の通過を実現できなかったけれど、一三と業精との交遊が新たな展開を生んだ。

◎小林一三と小西新右衛門の出会い

 小西新右衛門・業茂が明治20年代の後半に阪鶴鉄道に賭けた夢は、様々な紆余曲折はあったものの、とにかく実現した。明治40年に国有化されたが、その前に業茂は、アメリカ製の機関車による直通列車が、念願の大阪、舞鶴間を走ったことも見届けて亡くなった。

 この時代、百花繚乱といってもいいほどの多種多様な機関車が各地で走っていた。私営鉄道が全国で38社、それぞれに機関車を購入して120〜30機種を越えていた (注1)というから、個性豊かな鉄道時代だったのである。

 さて、阪鶴鉄道は国有化とともに手を離れていったが、新たな可能性を残してもいた。すなわち、今日の阪急電鉄が誕生する土壌を提供したことである。この阪急は、小林一三の手によって飛躍的に発展していくのであるが、その過程には伊丹とのかかわりも含めて、小西新右衛門の阪神との競争にもつながっていく。

 小林一三については、伝記もあり広く読まれているので、創立前後の事情の詳細はここでは省略する。要するに、小林が「大きい希望と野心と、夢のような空想を抱いて大阪へ帰ってきた」 (『逸翁自叙伝』)時期と、株式の暴落に端を発した日露戦後の恐慌が本格化しはじめる時期と、さらに、阪鶴鉄道の重役たちによって発起された箕面有馬電気鉄道 (のち、軌道)が設立か解散かの瀬戸際に追い込まれていた時期とが、ほぼ同じ時期であった。もちろん小林にとってはいずれも予期せぬことばかり、その渦中に飛び込むことになったのである。この3つどもえの大変な時期を、小林一三は強運と実行力で切り開いていく。

 小林を大阪に呼び寄せた人物は、当時、大阪の大銀行である北浜銀行の頭取・岩下清周。小林の三井銀行時代のかつての上司である。岩下は、この箕面有馬電気鉄道を推進させるために、小林を送り込んだわけである。

 計画路線は、かつて阪鶴鉄道が設立出願されたときに、起点の大阪〜神崎間の免許が拒否されたことに端を発している。官設鉄道と並行するからという理由であったが、阪鶴鉄道ではそのとき、この大阪〜神崎間は将来輸送量が増えて行き詰まることを予想し、別に大阪、池田間の直通線を計画していた。すでに免許も取得している。この敷設権を引き継いで電気鉄道を計画したのが箕面有馬竜気鉄道 (以後、箕電と略称する)であった。

 図10 創業時の箕面有馬電気軌道路線図
 「伊丹市史」第3巻より
gif

 箕電には、阪神電鉄のように都市と都市を結ぶ華やかさはない。世間では都市と田舎を結ぶ「田舎電車」と悪口を言う奴もいるが、沿線地域は、住宅地域としては理想的な環境といえるところが各所にあるではないか。服部、豊中、池田方面は、平野と雑木林と田畑が連なっている。電車を走らせれば、この地域一帯はまちがいなく高級住宅地になる。箕面や宝塚となればなおさらだ。小林はこう考えたのである。

 小林一三の発想のユニークなところは、線路を敷設する以前にこの沿線の土地を購入して、住宅を建設しようとした点にある。しかもそれを、積極的に、かつ大規模に沿線開発に発展させていったのである。それも、単に土地を高く売って儲けるのではなく、大衆を動員する形での開発を行って、電車の輸送需要をつくりだしたのであった。

 本格的な軌道工事の立案と用地買収に入ったのは、専務取締役として新会社の実権を握った直後のことで、創立総会 (明治40年10月19日)の1ヶ月前のことである。小林には、やる以上は何としても他社に先駆けて開業したいという執念があった。

 小西新右衛門・業精もこの用地買収に快く協力を申し出た。小林は、小西家が阪鶴鉄道に関与していたことを当然知っていたが、会社設立に当たって訪ねてきたものと思われる。業精は「とてもいいことだ」と賛成し、協力を約束したようである。服部あたりの土地の所有者であった木田弥市兵衛のところへも、小西新右衛門は足繁く通ったらしく、「よく、土地を売ってほしいと頼みに来られましたね」と、その息子さんが話している。

 小林が当初、沿線各地で買収した土地は25万坪にのぼる。これを43年 (1910)3月の宝塚線と箕面線の開通直後、6月に分譲を開始したのである。しかも、土地住宅の月賦分譲。「如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか」という有名な、自作のパンフレットを作成して、「模範的な郊外生活」の宣伝に努めたのである。これは画期的なことであった。そして、これにつながる宝塚新温泉の開発 (明治44年)は、やがて宝塚歌劇の創立へと進展していったのである。

 こうしたやり方は、後年の鉄道経営の原形となった。小林は、のち大正10年 (1921)ころに、東京の目黒蒲田電鉄や東横電鉄の重役となり、田園調布をはじめ今の東急沿線の住宅街の建設指導にも当たっている。


◎阪急神戸線の実現で、再び取り残された伊丹

 明治末年から大正期にかけて、阪神間は急速な発展をとげた。人口の膨張もめざましいものがあった。箕電も、ようやく大阪・神戸間の開発に転じて、阪神電鉄と競合する時代に入っていく。

 その最初の計画が、十三〜門戸線の出願であった。

 小林一三は、阪神間の前途を思い、株主に対する義務としてもこの路線を絶対に実現させなければならないと考えるようになった。しかし、この十三線は、西宮〜神戸間の敷設権を持つ灘循環電気軌道 (以後、灘電と略称する)を巻き込んで、阪神との競合に発展していくことになる。箕電にとっては、田舎電車から都市間を結ぶ一流の電鉄へ躍進するための重要なステップであった。

 そのドラマを、公開された資料をもとに再現してみよう。

 図11 伊丹付近の鉄道計画図
 「伊丹市史」第3巻より
gif

 第一段階は、灘電が明治45年 (1912)に神戸〜西宮間の循環路線の敷設権を取得したことに始まる。これは東海道線の北を通る山手線と阪神の南を通る海岸線とを、循環路線で結ぶというものである (海岸線は大正元年に放棄)。箕電は、これに着目し、これと接続することによって、大阪〜神戸間の直通路線の実現を計画した。これがいわゆる十三線である。 (大正元年8月19日出願)

 これに対応して阪神も灘電に働きかける (大正元年9月)。箕電も巻き返す。そしてついに、灘電が不景気で発起人の出資払込が思うように進んでいないことを読み取って、敷設権の買収 (大正元年2月)含みで、灘電の会社設立に持ち込んだ。

 十三線は大正2年 (1922)2月20日、敷設認可となった。翌3月、すぐさまこの十三線の計画変更を出願している。これは大正3年1月に却下された。あまりにも官線に接近していることと、伊丹地方の交通に資するという当初の十三線計画に反するという理由からである。結局、当初計画どおりで着工することとなり、大正4年4月に工事の施工申請が出されるのだが…。

 ところが、この間に大問題が発生していた。ここからが第二段階である。

 箕電の大株主である北浜銀行が破綻したのである。岩下清周は大正3年6月に頭取を辞任し、8月には銀行は支払い停止となった。岩下はこのとき箕電の社長でもあったが、もちろん動けない。小林は早急に自社株を買い戻さなくてはならなくなった。小林は奔走した。日本生命や大同生命にも株を持ってもらって、自らも持ち株を増やして何とかこの急場を切り抜けた。

 小林はついていた。ちょうどこの時期、第一次大戦が勃発 (大正3年7月28日)していたのである。株価が大暴落した。そして、翌4年に入ると今度は大戦景気が始まったのである。

 しかし、もう一つ問題があった。灘電をすでに傘下に入れていた (大正2年12月末)とはいえ、その全株式を資金の融資を受けるために北浜銀行 (以下、北銀と略称する)に担保に入れていたのである。しかも、それを北銀は整理に当たって処分すると通知してきている。かつてないほど資金に苦しんでいたときだけに、これを取り戻す資金は箕電にはなかったのである。

 そして第三段階。問題はこの灘電の株を北銀がどこに売却するかである。

 岩下は大正4年1月、箕電社長を辞任。同10月には阪神の取締役も辞任した。北銀では、岩下の後に入った高倉藤平新頭取が整理再建に向けて動きはじめた (大正4年12月)。岩下とつながっていた取締役の今西林三郎は北銀の大株主でもあった。

 この背景には複雑な事情がからんでいる。岩下が北銀の頭取のときから、箕電の社長であると同時に阪神の取締役でもあったこと、なおかつ重要なポイントは、箕電と阪神の合併論者であったことである。しかも、岩下の部下ともいえる今西林三郎は、阪神の専務取締役 (当時、社長は空席)になっている。その今西が、いま、北銀の取締役として動こうとしているのである。

 合併話は、すでに箕電発足当時には、岩下と今西の間で仮調印までできていた (注2)というし、大正2年の暮にもほぼ決まりかけていた (注3)小林の知らないところで、岩下が裏で動いていたのである。話を元へ戻す。大正5年2月、高倉は今西に、阪神が灘電株を買い取るように勧告しているらしいというので、小林は半ばあきらめけた。しかし、箕電にとって十三・門戸間の新線は、灘電と結びついてこそ意味がある。だまって見過ごすことはできないのであった。

 小林は、この絶対不利の窮地に陥りながら、次の3つの案を持って交渉にのぞんだ。陽動作戦である。

第1案  阪神電鉄が灘循環線を勧告どおり買収する場合は、当社が線路敷設の特許を取得して準備を進めている新線計画に要した費用をいっさい支払うこと。
第2案  第1案不賛成の場合は、灘循環線を阪神電鉄と当社の共同経営とすること。
第3案  第1案、第2案とも同意にいたらぬ場合は、当社が買収し阪神直通線の計画を進める (注4)

 これに対して阪神は、「箕電が灘電を買収することに異議はない (注5)」と伝えてきた。「経済環境が困難なこの時期に、急いで買収に乗り出すほどの積極的な理由を見いだすことができなかった (注6)」という。小林一三に言わせると、今西には「全く先見の明がなかったのだ (注7)」ということになる。

 「急いで買収に乗り出すほどの…」という表現に、いずれ合併してしまうのだからというニュアンスがくみ取れないこともないが、阪神側では、社史によれば「大正期に入ると強いリスクを冒すことなく、1割3分の配当を維持すべく、かなり短期的な視野に立った戦略の意志決定がなされた (注8)」と説明している。

 大正5年 (1916)4月、小林は、箕電の臨時株主総会を開いて、灘循環特許線買収を決議し、ただちに十三〜門戸線と特許線の合併認可を申請した (正式認可は翌6年2月23日)。しかし、灘電買収を決めたものの、まだその権利を巡る紛争が続いている。そのうえ、その買収資金や用地買収、建設資金など、幾多の困難を抱えていた。それらのことに何とかめどがつき、工事着工に踏み切ることができたのは大正5年10月であった。 (正式な着工認可は大正6年1月)

 小西新右衛門・業精が、阪神の有力株主として監査役に就任したのは、大正5年4月25日である。このころ業精は、前年の10月に箕電が十三線の工事施工の認可を申請した時点から、南伊丹あたりの用地買収に一役買っていたのである。立場上、妙なことになったと思ったかもしれない。

 しかし、阪神の監査役になったからといって、伊丹地域のために十三線実現を放棄するわけにはいかない。それはそれ、これはこれだ。小林との約束もある。おそらく業精は箕電発足当時の用地買収のことを思い出しながら、南伊丹近辺の土地購入の斡旋に奔走していたにちがいない。しかし、必要な土地の入手が思うように進まないのである。

 小林一三は、大正6年6月1日、ついに決断を下す。当初の十三線をあきらめて再び南へ移すことにし、十三線変更 (現・阪急神戸線)を申請した。阪神間の人口の増大は著しい。第一次大戦後の急激な商工業の発展で、官線と阪神の輪送能力も限界にきている。第三の阪神直通鉄道がいまこそ必要なのだ。箕電としても灘電との接続を容易にするためにも、伊丹迂回を避けて直線で結びたいというのが本音だ。

 鉄道院では、これは大正3年に却下したものとあまり路線が変わっていないし、伊丹地方の交通に資するという目的にも応えていないから、やはり却下すべしという意見が強い。この計画変更を知った伊丹町および沿線予定の村々からは、大反対運動が起こった。協約を無視した背信行為であるというのである。有志の上京陳情、ほぼ全町村民の署名を集めた陳情書の提出、変更反対の町民大会などが続いて、たいへんな騒ぎになった。

 結局、鉄道院は8月29日、伊丹地方の交通を考慮に入れて、変更予定線の塚口から伊丹支線を設置することを条件に認可した。このように、十三線が阪急神戸線として落ち着くまでには、数年を要したのである。

 小林一三は、大正7年2月4日、箕面有馬電気軌道株式会社を阪神急行電鉄株式会社と社名を変更した。そして、従来の宝塚線、箕面線を支線とし、阪神間の直通線を本線とした。なお、この神戸線本線と伊丹支線が開通するのは、大正9年 (1920)7月16日である。

 写30 阪急電車神戸線開通の広告
 (京阪神急行電鉄株式会社提供)
 「西宮市史」第3巻より
gif
 写31 開通当時の阪急伊丹線
 (池田文庫提供)
 「伊丹市史」第3巻より
gif

 翌年には、西宝線 (西宮北口〜宝塚間)も営業を開始した。このころには、沿線開発も急速に進展していた。

 よく考えてみれば皮肉なことだが、明治20年代にいちはやく馬車鉄道を計画して先駆的な役割を果たした伊丹が、その鉄道の発達にともなって、逆に近代的交通機関の発達から取り残されることになってしまったのである。

 阪鶴鉄道にしても国有化されてからは、摂津鉄道のときよりも便数が減り、貧弱なローカル線になってしまった。そしていままた、伊丹を通過するはずの当初計画の十三線に見放されて、支線に甘んじなければならなくなってしまったのである。


◎阪急の発展とともに白雪の売り上げも伸びる

 第一次大戦後、大正9年 (1920)の反動恐慌から12年の農村恐慌、関東大震災をへて、金融恐慌の始まる昭和初年にいたるまで、日本経済は苦難の道をたどった。

 ところがこの不況の時期に、第二の鉄道ブームが起こる。それも特に不況のはなはだしかった大正2年と昭和2年がピークで、全国的に数多くの鉄道が計画された。とりわけ幹線鉄道から取り残された伊丹平野では、15本にのぼる計画線が出願されている。伊丹平野を縦貫するもの8本、西国街道沿いに伊丹平野を横断するもの7本である。 (表(25)参照)

 しかし、最終的に許可されたものは、阪神急行電鉄の伊丹〜宝塚間と、塚口〜尼崎間、能勢電鉄の川西〜伊丹間、それに宝塚尼崎電鉄の尼崎〜宝塚間のみである。横断線はすべて却下された。しかし許可されたものも、いまだに着工されていないのが実情である。業精は、大正13年 (1924)10月、阪神電鉄の監査役を辞任し取締役に就任した。

 昭和2年 (1927)2月には、小林一三から株式会社宝塚植物園の社長に迎えられる。これがどういうことを意味しているのかは分からない。しかし、この年の翌3月に、小林一三が阪神急行電鉄の社長に就任していることと併せて考える必要がありそうである。岩下清周失脚後は事実上のオーナー経営者であったけれども、やっとだれに遠慮することもなく釆配を振るえるようになったと感じたときだったのかもしれない。

 ここに至るまでの苦難の道のりを思えば、その感慨もひとしおのものがあったであろう。ましてや、この年、阪神急行電鉄の株価は全国の電鉄会社のトップに躍り出ていた (注9)し、東京から三井の池田成彬が東京電燈株式会社の建て直しを依頼してきたのも、小林を一流の経営者として認めてのことであり、それを引き受けるだけ自信も十分にあったのであろう。

 そういう心の余裕が、かつて苦しいときに応援してくれた小西への感謝の気持ちを思い起こさせたのではないだろうか。小林は、また、わが国初のターミナルデパート「阪急マーケット」を開設したとき (大正14年)、昭和4年に「阪急百貨店」としたとき、昭和11年に「神戸阪急会館」を建てたときもそうだったが、およそ阪急の全関連事業で販売する酒は、すべて白雪だけしか取り扱わせなかったという。こうして小林一三の事業の発展とともに、白雪の売り上げも伸びていったのである。

 『逸翁自叙伝』 (図書出版社)の巻末解説で、堤清二が小林一三について大略次のようなことを書いている (注10)

 小林の行動様式には「合理性・近代性と共存している人情味」がある。それは、阪田寛夫もいうように「どれほど義理があっても、駄目なものは駄目だと断わることができる冷静な精神」と、岩下に対して見せた行動、すなわち、「恩に対してはどこまでも報いようとし、卑劣な行いによって受けた仇に対しては死んでも許さぬ戦いを挑む」という気性に裏打ちされている。


(1)橋本克彦著『日本鉄道物語』講談社 1989年 127ページ。
(2)『阪神電鉄80年史』日本経営史研究所編 阪神電鉄 1985年 160ページ。
(3) (2)に同じ、160ページ。
(4)『75年のあゆみ』阪急電鉄 1982年 17ページ。
(5)小林一三著「大阪町人として」 (『逸翁自叙伝』所収、『小林一三全集』第1巻 202ページ)。
(6) (2)に同じ、79ページ。
(7)小林一三著「あの頃・この頃」 (『私の行き方』所収、『小林一三全集』第3巻 237ページ)。
(8) (2)に同じ、126ページ。
(9)小島直記著『鬼才縦横-評伝・小林一三』下巻 昭和58年 98ページ。
(10)小林一三著『逸翁白叙伝』 図書出版社 1990年 263ページ。

[参考資料]

『京阪神急行電鉄50年史』京阪神急行電鉄 1959年。
『75年のあゆみ』阪急電鉄 1982年。
『輪送奉仕の50年』阪神電気鉄道 1955年。
『阪神電鉄80年史』日本経営史研究所編 阪神電鉄 昭和60年。
『電気之友』 大正2年〜6年。
小島直記著『鬼才縦横-評伝・小林一三』上・中・下巻 PHP研究所 昭和58年。
阪田寛夫著『わが小林一三-清く正しく美しく』河出書房新社 昭和58年。
小林一三著『逸翁自叙伝』阪急電鉄 1979年。
『小林一三全集』全7巻 ダイヤモンド社 1961〜2年。
咲村観著『小説・小林一三』読売新聞社 昭和59年。
津金澤聴廣著『宝塚戦賂』講談社 1991年。
『伊丹市史』第3巻。
『新・伊丹史話』伊丹市立博物館 平成6年。
『豊中市史』
『宝塚市史』第3巻。
『川西市史』第3巻。
『尼埼市史』第3巻。
『池田市史』

home 戻る

FujiyamaNET は「山は富士、酒は白雪」でおなじみの
小西酒造株式会社が運営しております。

FujiyamaNETに関するご意見・お問合せ:fujiyama@konishi.co.jp
Copyright(c) 1996-2009 konishi Brewing co.,Ltd.