第十一章 地名が語る伊丹の歴史
〜それ以外の旧村地帯〜
安達 文昭

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 前回に引き続きまして、「地名が語る伊丹の歴史」ということで、それの第二回目であります。
 前回は、「伊丹郷町とその周辺」というテーマで、いわゆる昔の「伊丹町」というところに焦点をしぼってお話しさせていただきましたが、今回は、「それ以外の旧農村地帯」、つまり、昔の「稲野村」「神津村」「長尾村」に目を向けてみたいと思います。
 資料にあげておりますように、まず町村合併の歴史、現在は一つの伊丹市という名前ですけれど、それまで、どのような経過をたどって現在の伊丹市になってきたのかという、そのあたりから話を進めてまいりたいと思います。


 わがまち伊丹は、いまから五十七年前の、昭和十五年(一九四〇年)に、市制が施行されました。「伊丹町」と「稲野村」が合併して、伊丹市となったわけです。それまでの伊丹町というのは、前回お話し申しました旧来の伊丹、それから天津、北河原、北村、大鹿という、そういう地域ですね。そして、その西側に、稲野村が連なっておりました。レジュメに昔の村の名前を挙げておきましたが、稲野村というのは、さらに十ヵ村に分かれておりまして、新田中野(東野・中野・西野)、池尻、寺本、昆陽、千僧、堀池、山田、野間、御願塚、南野という十カ村です。その稲野村と、伊丹町が合併しまして、昭和十五年に、伊丹市ということになりました。当時の人口は、三万人を少し越えていた程度であります。

 その後ですね、伊丹市は終戦直後の昭和二十二年(一九四七年)に、「神津村」を合併いたしました。神津村は猪名川の東側、八カ村で成っていました。小坂田、下河原、中村、東桑津、西桑津、森本、口酒井、岩屋という、その地区をまとめて神津村と言っていたわけですが、そこを合併して、さらにこんどは、昭和三十年(一九五五年)にですね、「長尾村」の南部地区(荒牧・荻野・鴻池・大野)が伊丹市に編入されました。
 で、そういった歴史的な経過、市域の変遷がですね、『伊丹市統計書』という資料に載っています。それを、ここに引用させていただいたわけですがね。その地図を見ますと、旧長尾村という地区だけが、大きく北へ出っぱっていますね。それが特徴かと思います。その出っぱっている理由については、またあとで詳しく申し述べますがね。

 それで、この旧長尾村と書いてあるところを、現在は中国自動車道が通っています。それから、その右側、川西市、池田市と書いてあるところのちょうど境目を猪名川が流れておりまして、で、旧伊丹町と旧神津村の間をずっと南へ猪名川が流れている、こういうことですね。それで、まあ現在の様子をもうちょっと申しておきますと、旧神津村のいちばん北の端、そこから国道一七一号線が伊丹の市内を横切るかたちで、南西の方角にのびております。西宮市と書いてある左下のほうをめざして、国道一七一号線がのびているということですね。さらに、その南のほうをJRの山陽新幹線が走っております。それから、旧稲野村と書いてある左側、西側ですけど、そこを武庫川が流れております。ただし、伊丹市域では、武庫川に接しているのは西野地区だけなんです。西野地区というのは、旧稲野村と書いてあるところのいちばん北の端ですが、ここだけが武庫川に接している、という状態ですね。

 さあ、それで、このような経過を経まして、いまから四十二年前の、昭和三十年に、現在の伊丹市域が確立されたというわけです。いま、人口は十九万人を越えておりますが、伊丹市となった当時(昭和十五年)に比べますと、だいたい六倍くらいにふくれ上がっている、という状況であります。
 では、いったい、この伊丹市域にはどのような地名があったのでしょうか。現在はもう、大字(おおあざ)だけになりつつあります。一部、小字(こあざ)の残っているところもありますが、大部分はもう小字が消滅しましてですね、「○丁目○番○号」と、こういう地名になっております。ですが、いま一度、大きく時計の針を巻き戻してですね、昔の小字としてどんな地名があって、どんな歴史が刻まれていたのかということを、展望していきたいと思います。


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